羊雲

羊 雲

✥ 復路の羊のふんわりノート ✥

File24*マイボーム線のつまりの原因とドライアイ*

*右眼・黄斑前(上)膜の手術後、1年9カ月(51才)で白内障手術をしたモノビジョン私の場合*-(黄斑前膜の術後*2年3カ月)

 f:id:white-ivy:20200225152424p:plain 先月の定期検診で指摘された、マイボーム線のつまり。

そもそも、この聞きなれないマイボーム線とは?

マイボーム腺は上下のまぶたの縁にある数十個の分泌腺で、涙の表面を覆う油脂成分を出す役割を果たしています。マイボーム腺が詰まって、中に脂の塊がプチプチとできるのが【マイボーム腺梗塞】、詰まったことが原因で炎症が起きて肉の塊が出来てくるのが【霰粒腫(さんりゅうしゅ)】です。

なるほど!私は、マイボーム線梗塞になったのね。…梗塞(こうそく)って…、脳の血管がつまる脳梗塞(のうこうそく)と同じ言い方をされると…ちと怖いけど。

でもそれが、悪化してしまうと霰粒腫(さんりゅうしゅ)になるんだ!

キャ~、そうなのかぁ…霰粒腫(さんりゅうしゅ)になったら、見た目にも立派な眼の病気!というのが分かるくらい医院のHPを熟読している私はちょっと驚きましたが、今だ何ともないので大丈夫そうです。。。

つまる原因をもう少し調べると…

加齢が原因でマイボーム腺の油分を押し出す力が弱くなり、詰まりやすくなります。

動物性の脂肪を摂り過ぎると、マイボーム腺からは固まりやすい、質の悪い油分が分泌され、詰まりやすくなります。

* 女性の場合、アイメイクが詰まりの原因となることもあります。

…急に加齢が加速した自覚はないし、動物性の脂肪を摂り過ぎた覚えもありません

そして(前々から何度も言っていますが)極薄メイクの私はマイボーム線を塗りつぶすほどのアイメイクもしていません。

が、そういえば、ちいと思い当たることがありました。

白内障の術後3カ月を過ぎて1日4度の点眼がようやく終了した頃から、薄っすら(吹けば飛ぶくらい、夕方にはすっかり落ちているくらい…)ですがアイシャドウにアイライン、そしてマスカラを使いだしたのです。お湯で落ちるマスカラなのでメイク落としは使わずに、いつも通りぬるま湯洗顔のみ。あるときお風呂から上がって何げなく鏡を見ると眼の下にうっすらと黒色が残っていたので、コットンにベビーオイルをつけて拭いてみたらコットンが思いのほか黒くなったのが面白くて、しばらくお風呂上りにそれをしていました。今までそんなことしてなかったのに、たまたましばらく使ってしまったベビーオイル(油分)がマイボーム線をふさいでしまったのかも?と!

そう!メイクではなく、メイク落としの油分がつまりの原因になったのかも?と!

そしてそのうち面倒になってベビーオイルは使わなくなり、見た目にうっすらパンダ目になったまま就寝しても、翌朝目覚めると分からないくらいになっていて、その後の水洗顔でさっぱりきれいに。今は、パンダにならないようもっと丁寧にぬるま湯洗いをしています。。。

 しかしそれよりもマイボーム線から出る油分も、食事で摂取する油の種類や量によるのだということを知り、あることに気が付いたのです!

私は日中はそれほどでもないのですが、もう何年も前から毎朝起きたときに瞬きをするのも辛いくらいに眼がとても乾いていたので、寝起き一番に必ず目薬を点していました。日中は、時々乾きを感じるときだけ目薬を点せばしのげていたので、ドライアイというほど酷くはないと思っていたのですが、寝起きだけは目薬を点さないとどうにもこうにも瞬きができないほど痛く乾いていたので、何年も目薬(市販品ですが)を切らしたことがありませんでした。実家に帰った時や旅行に行くときは、絶対に持っていくのを忘れないように気を付けていました。でないと、朝起きた時に目薬が無い事に気付くと誰かに急いで買ってきてもらわないと、眼を開けるもの辛いのですから!

レーシックをするとドライアイになりやすいとは聞いていましたが、レーシックをする前からハードコンタクト装用による目の乾きが年々辛くなってきていたので、加齢のせいだろうとあきらめていました。

それがなんと!先月辺りから、急に寝起きの眼の乾きが軽くなったのです!!

寝起き一番に目薬を点さなくても、ほぼ平気になってきたのです。まだ時々は若干の乾きから目薬を点したくなる日もありますが、以前は毎朝必ず目薬を点さずにはいられませんでしたから、もう何年も1日も欠かさず寝起きに目薬を点していたことからすると劇的な変化です。

ん?どうした?とは思いましたが、嬉しい事なのでそのまま忘れていましたが…、マイボーム線がつまるほど!分泌する油分が増え、涙(水分)をコーティングするに十分な量になったから、寝起きに眼が乾かなくなったのでは?と思い当たったのです!!

 どうして急に眼の油分が増えたのか?

 それには、思い当たる食生活の変化が、いくつかあります。

まず、数か月前から【先に野菜や果物を食べる】→

【次にたんぱく質をしっかり取る】→【炭水化物最後に食べる】というのを毎食実践するようになりました。

これ、数年前からダイエットによいとかで流行っていたのは知っていましたが、最近TVで詳しく説明していたのを見て、アンチエイジング効果もある!というので始めてみました。

 そして暑さが落ち着いた頃から、毎日のお弁当にたっぷりの野菜サラダを持っていくようになったこと。もちろん、一番最初に食べます!

 そしてそして、秋に入りおいしい果物が増えたので、帰宅後一番の空腹時に必ず果物を食べるようになったこと。

 私は毎日お弁当を作っていますが、それは節約と健康のためで、決してお料理大好き!ではない私にとって、食事作りは毎日大仕事です。なので、仕事から疲れて帰ってきてすぐに食べられる、のどの渇きも空腹も同時に満たしてくれる、甘くておいしいフルーツで元気を取り戻してから、第2ラウンド(食事作り)に入るのです。帰り際に、今日は柿かな?洋ナシかな?ぶどう?みかん?りんご?キウイ?…とその日の気分でセレクトできるよう、いくつも買い置きしています ♫

(…私はWワークしていると思っていましたが、トリプルワークだということに今気付きました。その3つ目の仕事、家事は、無給なのに年中無休の終身雇用だということに…う!)

更に他にも、オリーブオイル、たまご、チーズ、アーモンド、はちみつ、ヨーグルトをほぼ毎日食べるようになったこと!

 食べる食材は増えたのに、気付くと太ももが今までになく細くなっていたのです。今年の長かった猛暑時も頑張ってどこでも極力階段を使っていた効果?と思っていると、会社の健診で去年の同じ時期より体重が2kg落ちていることが分かりました。食事の総摂取量も増えたので、階段よりも食べる順番を変えたことが良かったのだろうと思っています。しかも、 体調も肌の調子も良ければ、一緒に眼の調子が良くなるのもうなずけるのです!

 、つまるほどというのはどうなのかと思いますが、でも特に不具合をおこすほどではありませんし、むしろ朝起きた時にあわてて目薬を点すのがなくなったことの方がずっと嬉しい!これはもうどうしたって加齢のせいだろうから、改善などしないと思っていただけに、驚きとともに大喜びです *\(´∀`)/*

でも…こんなにあれこれあると、いったい何が眼の油分を増やしたのか?は分からなくなりそうですが…

【 目に良い成分・ビタミンAを多く含む食材 】

人参かぼちゃモロヘイヤなどの緑黄色野菜、うなぎ、ほたるいかなど (油脂と一緒に摂取すると吸収が良い)
目の粘膜を正常に保ち、目に潤いを与えます。ドライアイを予防する働きがあります。

これを読んで、総合的に考えると…

十分な量の緑黄色野菜を最初に食べるようになったことで吸収量が増え、 目の油も増えて、目の粘膜が正常に保たれるようになり目に潤いが戻ったから、目薬いらずになったのだろうと思いました。

じゃあ…結局、つまるところ、マイボーム線のつまりの原因は?

…それは、そこにきてベビーオイルでふさいじゃった!からかな???

追記;そういえば先月の検診時に言っていた鈍痛が、このところ全くなくなりました。季節の変わり目を過ぎたからかなー?と思って、鄭先生にもそう伝えたけれど…潤いが戻ったのも関係してるかも?

横浜相鉄ビル眼科医院 (横浜駅西口、神奈川県横浜市西区)

ー*執刀主治医:鄭(てい)先生*-

(注:鄭先生には、ブログ掲載の承諾を得ています)

File23*黄斑前(上)膜・術後に発症した白内障の術後*4カ月検診

*右眼・黄斑前(上)膜の手術後、1年9カ月(51才)で白内障手術をしたモノビジョン私の場合*-(黄斑前膜の術後*2年2か月)

 f:id:white-ivy:20200225152424p:plain 週、定期検診に行ってきました。

朝から雨足が強く、家から出たくないほどで、よほど来週に延ばそうかと思ったのですが…待てよ、雨だと空いているのでは?と予測して、頑張って行って良かったです。さほど待つこともなく、そして忙しすぎない分、鄭先生にもゆとりが感じられ、 ツッコミも冴えていて!束の間の談笑ができました ♪  

 白内障の術後に関しては、特に変化は無かったのですが、右眼の上まぶたのマイボーム線がつまっていて黄色く小さなプチッとしたものができていました。モニターで見せられ「ゴロゴロするとか、ありませんか?」と聞かれたのですが、そう言われてみても…やはり何も感じないので、首をひねりながら笑顔でなんともないことを伝えると「…さすが、先輩ですね!」と突っ込まれ、笑ってしまいました(≧▽≦)

(鄭先生は私と同級生にあたるのですが、早生まれなので、4月生まれの私に時々「先輩!」とツッコミが入ります…^^;)

私に不具合がないので、放置することになりましたが…

しかし、マイボーム線のつまり。2年以上通院して初めての指摘だったので、家に帰って調べると…老化も原因となるようで「先輩!」というツッコミもあながち笑えないのですが、知ってしまうと異物感を感じるようになるかも?…という心配もなんのその!1週間経過しても、私の右眼はそんなことものともせず、何も感じることなく、今や実にたくましいのです!

それどころか、白内障手術で右眼に入った人工レンズのお陰で、綺麗な色に感動することが増えた気がします。例えば朝の出勤時、秋の空の色が本当に綺麗で、駅に着くまでに胸がいっぱいになるのです。空の色がみずいろで、雲の色が白で、良かったー!と思うのです。

今、NHK朝ドラの『まんぷく』を観ていますが、克子姉ちゃんの画家の旦那様が戦争の影響で色覚異常になり、一度は諦めた絵描きを再び始めたら、色覚異常になってから描いた絵の方が評判が良いという話の流れに、それをバネにより芸術面で伸びる展開を面白い!と思っているのですが、後天的に色覚異常になることがあるのを初めて知りました。

先天的な色弱の人とは、これまで2人ほど一緒に仕事をしたことがあります。

1人目は、初めて社会人になったときの直属の上司で、10才年上の男性でした。色弱で赤色が見えにくいので、別の色で資料にチェックを入れてほしいと言われて、その人が色弱であることを知りました。

2人目は、3年前に職場で一緒だった20代後半の男性で、みんなでDMの色決めをしているときに一人意見が合わず、最初冗談で言っているのかと思ったら、実は色弱であると言われました。小学生の時に色のことで、随分からかわれたと聞きましたが、明るく面白い、とても聡明な人でした。

色弱も、本人が打ち明けないと、傍からは分かりません。

調べると、私たちが子供の頃にしていた色弱検査は、差別につながるという理由から2002年に必須検査から外れ、それ以降実施する学校がほとんどなくなったのだとか。

現在19才のうちの息子も一度も受けたことがないと言っています。

色弱は男の子に多いと聞いたことがありますが、その確率は女の子の500人に1人に対して、男の子は20人に1人だそうで…知らないだけで実はもっと周りにいたのかもしれません。【色弱の人が見えている画像】というのを初めて見たのですが、こんな風に見えると生活にも苦労することがあるだろうなと思うほどで、予想以上でした。

でも今は、色覚補正メガネというものでかなり補正できるようですね。

…さあ、どっこい『まんぷく』♪

途中、憲兵に捕まる週などは急なハード路線変更に雲行きの不安を感じましたが、その後持ち直し、今私の一番のお気に入りはお母さんすずさんです。目一杯わがまま言っているのに、それを周囲はうまくやり過ごしていて、相手にされていないシーンなどは笑ってしまいます!わがままを言いながらも結局頑張るすずさんが愛しくもあり、おっとりとぼけたところもかわいい。だのに、さすがは武士の娘ですー!泥棒が入るシーンでは、悲鳴を上げて大騒ぎするかと思いきや、すりこ木を手に果敢に立ち向かうし、先週の従業員の野郎どものケンカのシーンでは萬平さんとかんべさんの男2人が止めに入ってもダメだったのに、すずさんの気合いの一声でケンカが収まるという、ここぞというときに力を発揮している頼もしさ ♪ (でも渾身の一声の後に、倒れちゃうところがまたかわいい!)間の取り方といい、その表情といい、さすが大女優・松坂慶子!しっかりした娘・ふくちゃんにいつも言い聞かせられる、どっちが子供なのかわからないくらいのお母さん・すずさん。

カーネーション』でいうところの(麻生祐未演じる)泣き虫でふんわりかわいいお母さんと同じ脇の強さを感じて…私は、好きだなあ…♫

白内障の術後については経過良好につき、次回の検診は年明けになりました!)

 

横浜相鉄ビル眼科医院 (横浜駅西口、神奈川県横浜市西区)

ー*執刀主治医:鄭(てい)先生*-

(注:鄭先生には、ブログ掲載の承諾を得ています)

『カーネーション』と半分…蒼い!そして『まんぷく』♪

f:id:white-ivy:20200225142710p:plain 平日夕方に再放送しているNHKの朝ドラ『カーネーション』を初見している。

Wワークしている私は、勿論、平日の夕方ゆっくりとTVに向かうことは出来ないので、せっせと録画したものを、仕事の休みの日にまとめて楽しんでいるのです。途中で再放送を知ったので、最初の方は見ていないのですが、見始めるとすぐに尾野真千子の演技力に惹きつけられ、その表情が可笑しくて!小柄なのに度量があり、ドスの効いた声も頼もしくて、そして何よりストーリーがしっかりしていて…先ごろ終わった『半分、青い』よりも、ずっと夢中になって見ています。 

 後半は3人姉妹の子育て、というか育ち方が見ていて分かりやすい。きょうだいがいても、その構成によってこうも違うものか?と、一人息子しかおらず、姉弟の私には、同性の姉妹(兄弟)は本当に競争心たくましく育つんだなあと羨ましく思いながら見ていましたが…突然お話が何十年か後になり、尾野真千子演ずる主役・糸子が、夏木マリに変わってしまいました。夏木マリ夏木マリで良い女優さんだと思いますが、それまでが尾野真千子たっぷりに骨太なストーリーを確固たるものにし、あのバラバラな3人姉妹の手綱を握る存在感で盛り上がっていたので、私の頭の中で話は繋がらず、別の話を見ているようです。いくら何十年後であっても、夏木マリがどんなに尾野真千子が演じた糸子に寄せていても、それが返って居たたまれないような気持ちになります。NHKに諸事情があったのかなかったのか知りませんが、いきなりのバトンタッチはやはり無理があり、一つの作品としてよく出来ているだけにとても残念です。この交代は数年前にリアルタイムで放送していた当時も反響が大きかったようですが、その主役交代のために大勢いた愉快な面々は総入れ替えで写真立てに入ることになったのか?とか、HNKであっても作品というものを純粋に扱うのは難しいのかなあ?と考えてしまいます。。。

さて引き合いに出した先ごろ終わった『半分、青い』

私としては、初回のオープニングで「片耳しか聞こえないことを、悲しいと思うか、ちょっと面白いと思うか。私は、ちょっと面白いと思う!」と言うすずめのナレーションで幕切りしたので、片耳しか聞こえないからこその開花を期待していました。だから、聞くことに弱い分見ることに長け、観察力が育ち、そこに温かい家族やご近所さんに囲まれて天真爛漫に育ったすずめだったからこそマンガという視界で表現する世界で成功していったという前半は、良かった!

あの頃の漫画家の中でも、くらもちふさこはダントツにハイセンスでストーリーも素晴らしかったですし、オープニング曲のPOPな星野源も、あの頃流行った大江千里を思わせ、音楽に合った映像とともにタイムトリップできました。

だけど、朝ドラは、全員がヒロインであることからしても、子供や旦那さんを送り出した後に一息つける時間帯からしても、主に主婦に向けているのであろう前提に言っても、その主婦が一人で見ても朝ドラとして見るには気恥ずかしくなるほどのその甘いシーンはいらない!と思ってしまう構成やキャスティング、そして終盤になるにつれ、どんどん散らかるような…取ってつけたような…雑で急な展開に戸惑いながら…最後まで見はしましたが。。。

そよ風の扇風機で成功する最後がオープニングソングの映像とマッチし、いろいろあったすずめと律もそよ風の扇風機の成功と一緒に結ばれて、おしまい。

…私には物足りませんでした。

よくTVなどで見る、素人の結婚披露宴で流れるような新郎新婦のラブストーリーなら、まあ♡と感激すると思います。結婚する前の若きころであったなら、ふう♡と思ったかもしれません。でも、そこはプロフェッショナルを求めれれて当たり前天下の朝ドラ!それなりに人生経験を積んできた、復路に入った主婦の期待は、年齢の分だけ肥えているのです。

初回冒頭ーすずめに優しくを差しだす律ーで始まり(でもそれは骨が1本折れたビニール傘)そして最後もー律がすずめのために作った特別なーで終わる。なんだかんだあったけど、結局すずめと律が結ばれておしまい、となると、結局恋愛ドラマだったのか…ととても薄っぺらく感じてしまいました。

『半分、青い』は賛否両論結構激しくネットで話題になっていましたから、これもあくまで好みの問題で、個人的思考なのですが、私は、すずめと律は幼馴染みとして兄妹のように助け合いはしても、結ばれる展開ではなく、お互い自立した大人として、それぞれの道を歩んでほしかった。すずめと律には男女の友情として成り立ってほしかった。

でももし、結ばれるとしたならば、優秀な律君だったのですから、片耳が聞こえない人に役立つものを開発して(途中そんなことを目指してなかったかしら?)再度プロポーズする!とか、すずめがマンガで成功したものの、継続していくという才能に苦しみ、挫折、マンガ家だったことを隠していたのに娘・かんちゃんに評価されたことをきっかけにそれまでの苦労やいろんな経験が糧となって、今度は、オープニングソングの映像に出ていたようなアイデアいっぱいなイラストレーターになって自信を取り戻し、今度はすずめから律にプロポーズして結ばれる!とか、そよ風の扇風機を共同開発するうちに…♡…よりも、別々に頑張るもう一花が欲しかった。

3.11の地震のシーンも、実際にあの時独身でいることに不安を強くした女性の結婚願望が高まり、結婚したカップルが急増したらしいので、それで2人の気持ちが向き合うのか?!と思ったのですが、それは娘・かんちゃんのお漏らしによるイジメだったり、ゆうこちゃんが帰らぬ人となるという、どちらもリアルに悲しい方向に…。

すずめと律が結ばれる結末ありきだったのなら、ゆうこちゃんにもボクテにも秋風先生にもみーんなにもう一度結婚式に来てもらって、新郎新婦があの特別な相合傘♡でパーティーエンド ♪ の方が、バブル世代らしくて良かった!と、まあ、ネットがあれほど荒れたのですから、素人にあれこれ突っ込まれる作品だったということでしょうか。

結果、私の中で『半分、青い』は、半分…蒼い(蒼は、くすんだ青色)になってしまいました。

ここでもう少し言えば、青い=ブルー、で半分悲しいと捉えている人もいたようですが、初回冒頭ですずめは「片耳聞こえないことを、私はちょっと面白いと思う」と言っていますし、すずめのお母ちゃんも「雨音が聞こえない、すずめの左側(半分)はいつも晴れ(青空)やね」と言っていますから、青い、は憂鬱を意味するブルーではないことは明らかだと思います。

カラーセラピーの世界では、空の青色は平和の象徴と言われるようです。ヨーロッパのおまじないサムシングフォーの一つである、花嫁が何か青いものを持つと永遠に幸せになれるというサムシングブルー。(私の結婚指輪の内側にも青い小さな石が埋まっています!…おなじない、効いてるのか?)チルチル&ミチルの幸せの青い鳥や、若い意味での青い、青春の甘酸っぱい青さも入っていたかも?とこれまたいろいろ考える余地のあるドラマだったんでしょうね。

でも、朝ドラ視聴歴20年!という、私が敬愛する某眼科のT先生が言うには、朝ドラは1週間区切りのタイトルになっているし、やはり毎朝15分見るのが一番丁度よろしいのだとか。そういう意味から、朝見るには『カーネーション』は重過ぎたという意見もあって、朝ドラ視聴歴の浅い私がまとめてガッツリ見てしまうから欲求が強くなるのかしらん?

だけど、新しく始まった『まんぷく』♪

ドリカムのオープニング曲は良いのに、あの映像は、んん?と思う気持ちを吹き飛ばす面白さ!美人の母&2人の姉に囲まれて育ってもちっともひがんでいない愛嬌の良い(大阪人なのに?)おっとりした主人公・福ちゃん。顔芸すばらしく3枚目を演じる意外と芯の強い萬平さん(長谷川博己)。そして…白馬に乗った歯医者さん!(ずっと白馬に乗ってきてほしかった…)もう何度も大声を上げて笑ってしまいました。安心して見られる朝ドラの王道型ですね☆

こちらも3姉妹だけれど、末っ子が主役という数少ないパターンだそうで、今後が楽しみです!

…チャンチャチャラララン、プー

File22*黄斑前(上)膜・術後に発症した白内障の術後*3カ月検診

*右眼・黄斑前(上)膜の手術後、1年9カ月(51才)で白内障手術をしたモノビジョン私の場合*-(黄斑前膜の術後*2年1カ月)

  f:id:white-ivy:20200225152424p:plain 当は、9月末で白内障の術後3カ月だったのですが、休みが取れず、10月に入りやっと検診に行ってきました。

結論から言うと、数値上、検診結果上は変わりなしです。

でも、私の感覚上は、益々見え方が安定してきている=この見え方に慣れてきています ♪

ただ、時々、鈍痛がするので、それを鄭先生に伝えたら「よく言うー古傷が痛むーというようなことだと思いますので、その時は眼を休ませて下さい」と言われました。 

 その鈍痛は、眼をよく使った後、とか決まった条件の時に起こるわけではなく、朝起きて間もなくの時もあるし、仕事中に廊下を歩いている時もあるしで、バラバラに来るのです。疲れ目用の目薬を点すと、とても気持ちよく治るので、それで対処していましたが…そうか!眼を休ませる、少しの間でも眼を閉じて休ませてあげる、というそんなシンプルなこと、灯台下暗しのように忘れていました。3回も手術をした右眼なんだから、もっと優しくしてあげないといけないな、と思いました。痛みを感じるということは、少なくとも身体が訴えているんだから、まずは休ませて労わってあげなくては!

ここで、眼以外の手術をしたことのない私は、早速、古傷が痛む?と調べてみたら…

気圧の低下を内耳でキャッチすると、交感神経の働きが活発化し、血管の収縮が起こる。すると古傷やまわりの痛覚神経が高ぶり、痛みが生じる。同時に内耳の反応によってリンパ液に波が起き、身体を動かしたかのような間違った情報が脳に送られ、さらに交感神経を刺激してしまう。

長かった酷暑から、このところの急に寒いくらいの涼秋。台風もいくつも来たし…そんな不安定な天候も関係してるのかも。そういえば、こうしてじっとパソコンに向かってると眼が疲れそうなのにその時よりも、動いている時、例えば駅まで歩く間とかの方が痛みを感じることが多い気がする。身体って、複雑なのね。。。

そして、そして、先頃アプリコットさんの卒院を拍手で送りだした私は、…もしかして私ももう通院終了?と、独り立ちする心の準備も出来ていないままにいきなり巣立ちの時がきたのではないかとドキドキしながら診察を受けたのですが、白内障の術後半年までは月1回の通院を勧められました。その後も間隔を空けながら、2年経過後も眼内手術をした患者には半年ごとの検診を勧めているとのこと。黄斑前膜は術後2年経ったけれど、白内障の術後はまだ3カ月で点眼薬が終了したばかりですから、まだまだ巣の中で口を大きく開けるツバメのひなのような気持ちだった私はホッとしたのでした。。。

しかし、人生100年だとしたら、まだ折り返したばかり、復路に入ったばかりなのに、見るというほんの3年前(48才)までは当たり前にできていたことに、こんなに左右されることになるなんて、それまで大きな病気をしたことのなかった、花粉症も他特段のアレルギーもなく、お通じもよい、頭痛持ちでもなく、たまに肩が凝るくらいの、会社の健康診断では内臓系はオールAの私には、初めての試練でした。

私は43才で長年のコンタクトレンズ生活に終止符を打ち、レーシック(近視矯正手術)をしたので、裸眼で遠近バッチリ見える(小学生以来の)快適な生活 ♪ となったのですが、それもわずか5年間で、黄斑前膜という突然の試練とともに老眼が始まっていきました。黄斑前膜も経年劣化から来る病気なのでしょうが、鄭先生の印象としては(重篤な患者が多く来る病院だからか)結構な患者数が診受けられるとのこと。そういえば先日、黄斑前膜の友ヨナと久々に連絡を取ったのですが、その後も変わらないらしく、家を出て大学進学した長男のところに時々行ったりで忙しくも元気そうでした。私のように自覚後数か月で視界が明らかに悪化する者もいれば、ヨナのようになかなか進行しない人もいる。でもどちらにしても、だれもがなる老眼や白内障の進行によって、見え方の異変にだんだんと気付きにくくなるので、数値や画像で明らかになる定期検診は大事だと思います。

それにしても、老眼という見えにくさも、白髪やシワのように「ほら、見て!」と見せることができれば簡単なんだろうけど、その見えにくさは傍からは分からないところが、やっかいな上に、近視で眼鏡をかけている人、近視でコンタクトを使っている人、視力が良く裸眼で過ごしている人、そして私のようにレーシック→黄斑前膜→白内障と3度も手術をしたモノビジョンな人、とそもそものベースが違うのだから、老眼による不具合の出方の詳細や対策の取り方も違ってくるし、そこに個人差が絡んでくれば、共感したりされたりも微妙で、視界の不具合というのは本当に孤独だなあと思う。

黄斑前膜の手術後の頃、50才という節目で高校の大々的な同窓会の幹事学年になり、その準備で何度も同級生と集まったのですが、「俺なんて40過ぎから老眼始まってるよ~」と言ってた(元)男子よりも誰よりも、資料が見えなくて、常に私はその頃老眼鏡をかけていた。その頃は、自分で書いてきたメモも老眼鏡をかけないと読めなくて、「え?!自分で書いたものも見えないの?」と驚かれて、逆に、みんなは老眼が始まってると言っても、自分で書いたものは老眼鏡をかけなくても見えるんだ!と自分との違いが分かったりした。後にそれは黄斑前膜の術後回復の途中(術後半年ごろ)だったからだと分るのですが、その時は老眼鏡をかけると見えたので、これは老眼なの?同級生の誰よりも酷い老眼になってきてるってこと?でも度数+1.5の軽めの老眼鏡で十分見えるんだけど?48才で黄斑前膜になるまではあんなに近くも見えていたのに?それとも黄斑前膜のせい??と、視界という自分にしか分からない孤独な世界で不安になっていました。

あの頃に比べ、今は白内障の手術もしたお陰で、自分で書く文字は勿論、老眼鏡なしでもいろんなものがほぼ見えるようになって本当に良かった!と思う。

白内障の手術前、やはり高校の同級生と食事をしたときのこと。近視のためコンタクトをしている友人達が、老眼で見えないからコンタクトの上から老眼鏡をかけてるのよ~!とか、ゴルフをするとき今までのコンタクトでは手元のスコアが見えないから弱めの度数のコンタクトに変えてるの~!とか、それぞれの苦労と工夫の話を聞いて、眼の事で苦労していたのは私だけではないんだ!と孤独から解放されたのに、白内障の手術をする話をしたら「え~!?白内障?!」と気の毒がられ…、やはりどうしても白内障はお年寄りの病気という世間のイメージが強いからか、非常に驚かれてしまいました。

 まあ、私の場合は硝子体手術(=黄斑前膜の手術)をしたことによって発症した核白内障だったから、進行が早く、こんなに早く手術することになったのですが、いざ御年51才で白内障手術をしてみて思うことは、早目の手術も悪くない ♪

どころか、あらゆる色彩が(健常なはずの左眼よりも明らかに!)綺麗に見えるようになったことは、むしろ早目に手術して良かった ♫ と思っています。だって、~20才の人の水晶体と同じくらいクリア~になったんですよ!そんなに若返るなんて…これ、術後患者に『白内障の手術をして良かったことは?』とアンケートを取ったら、絶対に理由の上位に入ると思う!!

自分の肌色まで綺麗に見えるようになるんですから、女性なら絶対嬉しいと思います。爪や歯茎の色はピンクに、歯も白く見えるので気持ちが上がります!…高齢の女性のお化粧がだんだん濃くなるのは、水晶体の濁りで自分の顔色もくすんで見えてくるからじゃないかしら?と思い、今、お化粧をするときは左眼をつむって右眼で色を確かめています。

そう!今、正確なを見たいときは、眼で!正確なを見たいときは、眼で!

と、使い分けているのです。なんだか、ややこしいガチャ目?のようですが、見えなかった頃があったからこそ、あの頃と比べると、モノビジョンで遠近そこそこ見えるようになった今に御の字なのです☆彡

横浜相鉄ビル眼科医院 (横浜駅西口、神奈川県横浜市西区)

ー*執刀主治医:鄭(てい)先生*-

(注:鄭先生には、ブログ掲載の承諾を得ています)

弟のついでの話…続きの続き

f:id:white-ivy:20200225142710p:plain 記事 、前々記事の続きです。前々記事

hitsujigumo.hatenablog.jp

 前記事

hitsujigumo.hatenablog.jp

 して、一人東京の(情報系の)専門学校へ進学した年子の我がは(足の踏み場もないほど部屋は散らかっていましたが)2年間勉強は真面目に頑張ったようで、晴れてー学校からの推薦でー準大手(と、 今検索したら Wiki に書いてあった!) 商社システム部に就職しました。

 就職が決まる前、推薦者を決める学校側か?推薦者を受ける商社側か?は分からないのですが、実家の近所の、私達が子供の頃からよくアイスクリームを買いに行ったり、お使いに行ったりした小さな個人商店や、小さい頃からよく散髪に行った床屋さんのところに、弟のことを聞きに来た人がいたようなのです!

勿論、こっそり来たのでしょうが、商店のおばちゃんや床屋のおじちゃんがうちの両親に教えてくれたから分かった訳で、それを聞いた私は、これまたへ~!と、東京からはるばる弟の事を調べに来たりするんだー!そんなことって、本当にあるんだー!!と驚きました。弟は、いわゆるヤンチャと言われるようなことは一切なかったですし(ま、反対に生徒会長をしたり部活で部長をしたりという華やかなリーダー履歴もなかったのですが)当たり前に挨拶をする普通の子でした。(子供なのに気が回る私と違って)子供らしかった分、むしろ商店のおばちゃんにも床屋のおじちゃんにもとてもかわいがられていたと思います。

それは、入社した先の上司からも「箱入り息子」と言われるほどだったようでしたが、当時世の中的にもぐんぐん上り坂のシステムの仕事は多忙を極まり、連日終電の日々!だったはずが…、ある日突然に会社が倒産してしまったのです。

1998年のこと、弟は29才でした。正確には、あと3か月で30才。入社10年目でした。歴史ある会社だったことを誇りに思っていて愛着が強かっただけに、とてもショックを受けていました。それとなく以前より経営不振の噂はあり、株価はどんどん下がっていくので、社内でもいよいよ危ないんじゃないか?と社員同士で心配し合うものの、弟のシステム部の業務は変わらなかったので、いつも通り出社しようとしたら、自分の会社が倒産した!というTVのニュースが流れて知ったのだそうです。「社員なのに、世間の人と同じタイミングで知るんだよ!」と弟は悔しさや虚しさとともに怒り、悲しんでいました。

私も、通勤電車の中でおじさんが広げていた新聞の一面にあった「○○商事、倒産!」が目に飛び込んできて、知りました。

これは、弟の人生の2度目の転機です。

弟は会社の野球部に入っていて、あるとき阪神にいたバースと一緒に試合をする(?詳細は忘れましたが)とかいうTVの企画に当選したようで、チームで出ていて、盛り上がりとても楽しそうにしていたことなどを思い出しながらも…姉として、励ましました。

きっと、この転機はこの先の更なる良き未来に繋がっている気がする!というようなことを言ったと思います。…随分、曖昧な励ましのようですが、私はこのことに驚きましたし、残念には思いましたが、何というか、弟がかわいそうとか、そういう全くのマイナスには思えなかったのです。

確かに、真面目に頑張っていた弟には突然の試練で、運が悪いとも言えるのですが、弟はまだ独身でしたから養う家族がいるのに困るという訳でもなかったし、まだまだ若かった。次の仕事に移るという人生のネクストステージに進むんだなあ…と私には(姉ながら)他人事のようですが、不思議と楽しみにさえ思えてきたのです。

それはきっと、かつて誰にも内緒で1人で門司まで自転車で行ってきたことや、父の反対を押し切って進学校から専門学校へ行き、成績優秀者として推薦を受け就職するほどそこで真面目に頑張ったこと(…でもその推薦先が倒産!なのですが…)そんなことが、私に「ええ君なら大丈夫!」と思わせたのです。

それに、推薦で就職したということは、全くの自力で就職活動をして得た結果ではありませんから、ここらで一度くらい一から(再)就職活動をするのも良い経験になるのでは?と、まだこの先の人生は長いんだから、これを機会に更にたくましくなってもらいましょう!という姉心もありました。

あ!唯一、退寮の期限が来たタイミングで買ったばかりだった(後に事件現場‼となった)マンションローンはたっぷり残っていましたが…。

 そして、弟は自分の会社の倒産後に経営破綻した某銀行には税金が注ぎ込まれ救済されることに悔しい思いをしながらも、物流系の会社に転職しました。

そしてその後も、姉の私を心配させることはいくつもありました。

ある日の飲み会の帰りに電車で寝てしまった弟は、寝ている間にカバンごと擦られ、鍵もないので家に入れず(何かの時のためにと渡されていた)マンションの合鍵を取りに私のところに来たり、、、(あろうことか2回も!あったのです‼)

ちょうどエイズが世間を騒がせていた頃、弟の微熱が何カ月も続くのでエイズを疑い検査までしたけれど、エイズではなく、じゃあ一体何の病なのかと心配していたら、ウソのような話ですが、その頃付き合っていた「あ…そこを兵隊さんが行進してる…」というようなことを度々口にする他の人には見えないものが見えるらしい彼女と別れた(正確にはフラれたらしい)その途端、平熱に戻った!とか、、、

今ほど熱中症の知識が広まっておらず、スマホもまだなかったので即検索 ♪ ということも出来ない頃、弟が会社のサッカー部の試合中に熱中症で倒れ、身体は全く動かず目も開かないんだけど、周りの人が心配して大騒ぎしている声だけは聞こえて「救急車呼んだ方がいいんじゃない?」とか「水を飲ませた方がいいんじゃないか?」とか「ここを冷やした方がいいんじゃない?」とかみんながあれこれ言うのを「それ、ほんとに正しいの~?大丈夫なのか~?」と滅茶苦茶不安になりながらも動けず、結局救急車で運ばれ事なきを得たようですが、その日東京は「都内で熱中症により救急車で運ばれた人が〇〇人!」とトップニュースになるほどの突然の猛暑日、その〇〇人のうちの1人が弟だったのか…とか、、、(死者も出てましたから…、そっちに入らなくて本当ーに良かった!)

そして、極めつけは、以前に書いた弟のマンションで起きた、本当にあった怖~い話!なのです。

私が知っていることをちょっと思い返しただけでも、結構、命の危険に関わるような出来事もいくつもあり改めて驚くのですが、弟が独身の間は、姉としてやはりとても心配でした。

まあ、そんなこんなで少々時間がかかったけれど、その後弟は8つも年下のお嫁さんと結婚し(これまた時間がかかったけれど)この夏ようやく2才になったかわいい娘と、今は平穏な日々を送っています。

後は、もう任せたよ!あゆこさん(お嫁さんの名前)。。。

弟のついでの話…続き

f:id:white-ivy:20200225142710p:plain 記事の続きです。 前記事は以下 ⇩

hitsujigumo.hatenablog.jp

 の後、中学・高校時代は弟も私も部活勉強にと忙しくなり…、中間テストと期末テストの繰り返しで(その間に市内統一テストもあり…3学期制なのに一学期に3度も!)テストに追われる日々(まさに詰め込み教育時代!)で、弟に関しては大きな出来事もないうちに受験を迎えた気がします。

 、一つだけ、くだらないことを思い出しました。

中学生の時、弟がコップを口にくわえ、それを吸いつけたまま顔を振ったりして遊んでいたら、内出血して口の周りが絵に描いた泥棒のように黒くなったことがありました。私はそれを見て思わず笑ってしまったのですが、鏡で自分の顔を見た弟は「こんなんで学校に行けない…」と落ち込んだので、気の毒になり2人でしばし沈黙…。結局しばらくマスクをして登校していました。(当時はマスクといえば、風邪や咳がひどいときくらいしかしませんでしたから、季節がいつだったかは忘れましたが、その手があったか!と姉としてもホッとしたのを覚えています)

弟は中学ではソフトテニスに(硬式はなかったので)高校では再びサッカー部に入り179㎝の長身からキーパーをしていましたが、その、下の子的性格から先輩(といっても私にとっては同級生ですが)にはよく可愛がってもらっていたようでした。

しかし、私に続き、弟も勉強の方は苦労したようで、一浪どころか、二浪までしようとした、一見根性がありそうで実はフワフワの私とは違い、大学受験に失敗すると、ほとんどの同級生が当然のようにすることになる浪人は頑として嫌がりました。

(私の息子も浪人は絶対に嫌!と言ってたんですよねー。当時の弟にも、受験生だった頃の息子にも、浪人を経験した私は「浪人生活って、結構楽しいよ!」と話したのですが、これも向き不向きに分かれるんでしょうね。まあ、右も左も浪人だったあの頃と今では、時代も違いますが…)

そして弟は、即気持ちを切り替え、専門学校への進学を希望したのです。

(田舎とはいえ、一応は進学校でしたから、専門学校へ行く子など皆無に等しい中、そういう意味では勇気のいる決断だったと思います…が、私がふわふわと二浪しかかったのも影響したのかも?!)

しかし、それに参ったのは(男の!)弟にこそ大学進学をしてほしかった父です。父は、自分が高卒だったからこその苦労を伝え必死で説得したようですが、弟は(頑固ですから!)そこは聞きません。。。父が根負けして、弟は東京の(今でいうIT系の)専門学校へ行くことになったのです。(その初波が来始めていた頃でしたからね。今のように、PCやスマホでサラッと検索すればすぐに情報が得られる時代じゃなかったけど、弟なりに調べて考えて一人で決めたんでしょうね…)

ここで、ついでに私の話をすると…

私の場合は、大学受験に落ちると当然のように浪人!という波に乗りたくて(どうしても大学生になりたかったのです!)そうなると弟とW大学受験になり家計が苦しくなると渋る父に懇願して予備校に通わせてもらいました。

でも、将来なりたいものがあるわけでもなく、この方面の仕事に就きたいというものもなく、ただただ大学生になることに憧れていたのですが、女が大学に行ってどーする!という考えの父への対抗心もあったのだと思います。(高校生の時に、男女雇用機会均等法が制定されたので、そんな時代の影響もあったのでしょう)しかし…肝心の頭が!頭脳が!よろしくないので、大手予備校の高い授業料も虚しく、模試の判定は上がらないままでした。私がそんな具合ですから、父は「浪人までしてどこにも受からなかったら、公務員になりなさい!女が男と同じだけの給料がもらえるのは公務員が一番ええんじゃけぇ!」と父自身が公務員なので、公務員を絶賛し「…公務員には(そんな地味なもの!)なりたくない…」と小声で言う私のことなど聞く耳持たずで、勝手に公務員試験を申込み、受けに行かされました。この父の強引さは許せなかったのですが、勉強の成果が上がらない負い目があった私は、受けには行ったけれど、全て白紙で出したのです。勿論、そんなこと父にも母にも言ってませんし(これも!)今でも内緒にしてることの一つですけどね。ahaha!(だって、お父さんは私を公務員にさせたかったんだろうけど、私は公務員になりたくなかったんだもの!)

と、そんなことを経ながら大学受験本番も、共通一次の自己採点はよくないまま二次試験(論文のみ)を受け、論文はどうにかハッタリ通せましたが、なんせ共通一次で点が取れなかったので絶対に受かるはずがない!と思いながら結果を待っているうちに…どーしたことか、自分の能力のなさを棚に上げ急に欲が出てきてしまい、もし合格してもそこには行かずにもっと上の大学に進学したくなってきたのです!

(その当時は2浪も珍しくなかったですから、だんだんと自分を見失ってしまうのが浪人というものなのかもしれません。だって、現役だったら万々歳!一浪しても私の成績では届かなかった、私には受かれば御の字!の第一志望校だったのですから)

するとそこへ、ひょっこりまさかの格通が送られてきました。しかし、すっかり2浪する気満々になってしまっていたアホな私は、これを親に知らせずに2浪生活に入る気で、2,3日それを隠し持っていました。でもまあ、この度この大学には合格したけれど、もっと上の大学を目指したいので2浪させてほしい!とお願いしてみようと、合格通知を父に見せたら…全く予想外の事態に私の運命が決まってしまったのです。

格通知を見て、父が泣いたのです。私の目の前で…。うちでも職場でもワンマンと恐れられていた強面の、いつも強気な、決して人前で泣くようには見えない父が泣いたのです。私は非常ーに驚き「でもね、そこよりももっと上の大学に行きたくなったの!」とは言えなくなり…、現実を見るべく、その大学へ行くことに覚悟を決めたのでした。(合格通知、捨てなくて良かった…)

戻り、弟の続きは、また次回 ♪ 

 ですが!ノーベル医学生理学賞を受賞した本庶佑氏が、生まれは京都市ですが、その後高校卒業までを宇部で育った我が高校の大先輩だと分かり、田舎の公立進学校の上下層の果てしなさや恐るべし!…と、見上げる秋の空は高く、秋風が心地好くほほを撫でるのでした。。。

弟のついでの話

f:id:white-ivy:20200225142710p:plain リーカテゴリーで、私の弟の、ひとつ間違えれば 惨事!になったかもしれない本当にあった怖~い話 をしました

hitsujigumo.hatenablog.jp

 この我が、一見穏やかでそのように見えないのですが、思い起こせば…数々の心配な出来事はありました。

年子の弟は、小さい頃はいつも私にくっついてきていました。

私が物心つく前のこと、弟が生まれ、寝ている赤ちゃん(弟)に興味津々そうな1才の私に「触っちゃダメよ」と母が教えると、うなずいた私は、しばらくすると物差しで弟をつついていて驚いたことがあると、母に聞きました。(私は触ってない!触れているのは物差しよ!ということかしら?我ながら、当然覚えていませんが…)はたまた、母が弟を抱っこしていると「コッチ、コッチ」と赤ちゃんを布団に戻すよう私が言うので、そうしてみると、すかさず空いた母のひざに座ったりしていたのだとか…。(これも勿論、私は全く覚えていませんが、突然現れた得体の知れない赤ちゃんというものに興味を示しながらも、これまでとの勝手の違いから、母を取られては大変!と幼き知恵を絞っていたんですねぇ。HaHaHa!)

私が4才、弟が3才のときに家が建ち(祖父、父の父は大工兼業農家だったので、建ててくれたのです!)それまでの借家から引っ越したのですが、新しい家にワクワク!の私とは反対に、新しい家が理解できない弟は昼間は元気に遊んでいるのに、寝る時になると「家に帰る~!」と前の借家に帰りたがり(親から引き離された子犬のように)何日か泣いていたのだそうです。海へキャンプに行った時も、テントで寝る!ということにワクワク♪の私とは(やはり?)反対に波の音を怖がって泣き、なかなか寝てくれなかったということもあったそうです。そういえば、弟は小さい頃寝る時にべべと呼んでいたお気に入りの布を触りながらでないと眠れなかったのを、今思い出しました!

私の記憶にあるのは保育園からで、弟はしょっちゅう「姉ちゃん、遊んで!」と私の教室まで来ていました。(と、強く記憶していますが、もしかしたら弟が入園してしばらくまでだったのかもしれません)すると私は、友達と遊びたい気持ちを我慢して、仕方なく手を引いてせかせかとその辺を一周まわり、とりあえず姉としての任務は果たしたような気持ちになって「じゃあね!」と友達のもとに戻っていったのです。年子の2人姉弟ですから、家ではいつも一緒に遊んでいましたが、保育園では友達と遊ぶ方が楽しいので、ええ君(弟の呼び名)も早く友達作ればいいのにー!と思っていました。

小学校へ上がってからも、私が友達の家へ遊びに行くとよく一緒についてきていました。(これも弟が入学後しばらくの間だったのかもしれませんが)近所の友達の家なら良かったのですが、ある時、少し遠くの友達のお誕生日会に呼ばれたときも「一緒に行く!」と言われ、この時は「今日だけはダメ!」と結構強く言ったのですが聞かなくて…、困り、仕方なく連れて行ったけれど、少しおすまし感のあるお誕生日会だったので、私も皆もあの当時よく言っていたーよそゆきの服ーを着ておしゃれしてプレゼントも持っているのに、突然の呼ばれてもいない弟というこぶ付きであることが、友達の手前とても恥ずかしくて嫌だったのを覚えています。

とは、こんな小さい頃から根負けせざるを得ない立場にあったんですねぇ。…そして、とはみな、こんなに我の強い生き物なのでしょうか?それとも、立場がそうさせるのか?それとも、うちの弟の性格なのか?は分かりませんが、ともかく姉というのは、損な立場だなあ…と思うことが多々ありました。

 身体は私の方が大きくても、おやつの量は同じ。なのに、私はお姉さんだからと何かと譲ったり我慢させられたりすることの多い事よ。姉って、つまらないなあ…と。

小学生の時、親戚のおばさんのとこに弟と2人で預けられ、文具屋で「何か欲しいものを買っていいよ」と言われても、値段が気になり何にしようかなかなか決められない私とは反対に、値段など全く気にせず「これ!」と結構値段のする物(子供の私からすれば!ですが)を選ぶ弟の遠慮のなさに(これを子供らしさ、とも言いますが)姉として恥ずかしいような申し訳ないような気持ちになり、とても気をもんだのを覚えています。たった1才の違いでもこんなに意識が違うのですから、大げさに言えば、弟と2人でいる時の外界に対する姉の立場は常にミニ保護者のようでした。(幼いほど、1歳の差というのは精神年齢の差が大きいですからね。成長と共にその役目も徐々になくなってはきたのですけどね)

私はこんな立場で育ったから、交渉下手なのでしょうか?

下の子は甘え上手、頼みごと上手!は、世渡り上手!そして交渉上手になるんでしょうねえ…。羨ましいです!

甘え下手、頼み下手な私は(出来もしないのに!そう!!出来れば問題ないのですが…)1人で引き受けることしかできず、家でも職場でもクタクタに…。私は、働きアリの星を背負っているんだと思います。要領悪いのに…。(だから、使われるの??)

うちのも、5つ上の兄(もう亡くなりましたが)がいたで(?!)その我の強さと言ったら…もう!私の弟以上です!!なので、父は私や母には俄然強い!のに、なぜか弟には弱い!!のが、また私には全く面白くないのですが!!!(…悲しいかな、年代的な男尊女卑があり、若い頃はその分をうんと父に反発しましたが…それは、長くなるのでまた今度。。。トラ年生まれ&B型の父は強烈で、そのエピソードはなかなかのもの…乞うご期待あれ!)

まあ、小さい頃はそんな弟でしたが、人当たりは温和なのでちゃんと友達もでき、小学校4年生からはサッカークラブにも入って自分の世界を広げていったようですが…、ある日、学校で昇り棒から落ちて3日くらい記憶喪失になったことがあるのです。学校から母のもとへ連絡が入り、すぐに病院へ行ったのですが、そこで偶然いとこのお姉ちゃんに会ったことなど諸々を覚えていなかったのです。幸いたいした外傷もなかったので、小学生の私には「記憶喪失って本当にあるんだー」とそのことが不思議でならず、記憶喪失を面白がっていましたが、息子の子育てをしてきた今考えてみると、父と母はさぞかし心配だったと思います。私の息子がそうなっていたら、きっと私はとんでもなく心配したと思いますから!

弟は扁桃(へんとうせん)を取る手術もしたのですが、あの当時は椅子に座ったまま部分麻酔での手術で、なぜか母は近くでそれを見ていたのだそうです。すると受け皿に、弟(母にとっては息子)の口から大量に血が出てくるのを見て、倒れたのだとか。これを聞いた時も、私は、そのドラマのようにクラッと倒れる母を想像して本当にそんなことがあるんだ!とおかしくなり笑ってしまったのですが、「笑い事じゃないよ~。気持ち悪いくらい大量に血が出たんよー。心配したよ~」と母は言っていました。(でも、なんで立ち会ったんだろ?弟が不安がったからかな?ここでも、母が弟の我に負けたか??)扁桃は私の息子も5才の時に取っているのですが…その話はまた別の時に。。。

そして、中学に入って間もなくしたある休日のこと。私は部活に塾にと忙しくしていたので、夜になって知ったのですが、朝、母が弟を起こしに行くと布団に寝ていたのは枕で、弟は行方知らず。買ってもらったばかりの、あの頃男の子に流行ったセミドロップハンドル&多段変則のジュニアスポーツ自転車(今、検索したら、そんな名前だったんだ…と思いながら打ちましたが、その姿が懐かしい!)もなかったので、それに乗って遊びに行ったんだろうと、さほど心配することもなく、しかし、昼ご飯の時間が過ぎ…、夜ご飯の時間になっても帰ってこない!という事態に。さすがに、心配になってきたころ、その自転車とともに帰ってきたのです。どこへ行っていたのかを聞くと「門司まで行ってきた!」というから、驚きました!!私が住んでいた(山口県宇部から関門橋を渡り、はるばる(北九州市門司(もじ)までは、(今、検索したらICからICまでで)55㎞もあり!(しかも、往復ですからねえー!!行きはよいよい、帰りは辛い…だったと思いますが)その手前の下関までは車で何時間かかけて家族で行ったことがあったので、中学生だった私はとにかくその距離の遠さに驚き、1人で内緒でそんな冒険をしてきた弟を意外に思い、ひたすら「スゴイ~!!」と言っていました。父も母も心配させたことを叱るどころか「よく行き方が分かったね~!迷わんかった?」とただただ驚くばかりで、一気に我が家のプチヒーローになったのでした。

いつの間にやら、いえきっととっくに、私の後を追うばかりの弟ではなくなっていたんですね☆ミ

その後は…また次回に。。。