羊雲

羊 雲

✥ 復路の羊のふんわりノート ✥

弟のついでの話

f:id:white-ivy:20200225142710p:plain リーカテゴリーで、私の弟の、ひとつ間違えれば 惨事!になったかもしれない本当にあった怖~い話 をしました

hitsujigumo.hatenablog.jp

 この我が、一見穏やかでそのように見えないのですが、思い起こせば…数々の心配な出来事はありました。

年子の弟は、小さい頃はいつも私にくっついてきていました。

私が物心つく前のこと、弟が生まれ、寝ている赤ちゃん(弟)に興味津々そうな1才の私に「触っちゃダメよ」と母が教えると、うなずいた私は、しばらくすると物差しで弟をつついていて驚いたことがあると、母に聞きました。(私は触ってない!触れているのは物差しよ!ということかしら?我ながら、当然覚えていませんが…)はたまた、母が弟を抱っこしていると「コッチ、コッチ」と赤ちゃんを布団に戻すよう私が言うので、そうしてみると、すかさず空いた母のひざに座ったりしていたのだとか…。(これも勿論、私は全く覚えていませんが、突然現れた得体の知れない赤ちゃんというものに興味を示しながらも、これまでとの勝手の違いから、母を取られては大変!と幼き知恵を絞っていたんですねぇ。HaHaHa!)

私が4才、弟が3才のときに家が建ち(祖父、父の父は大工兼業農家だったので、建ててくれたのです!)それまでの借家から引っ越したのですが、新しい家にワクワク!の私とは反対に、新しい家が理解できない弟は昼間は元気に遊んでいるのに、寝る時になると「家に帰る~!」と前の借家に帰りたがり(親から引き離された子犬のように)何日か泣いていたのだそうです。海へキャンプに行った時も、テントで寝る!ということにワクワク♪の私とは(やはり?)反対に波の音を怖がって泣き、なかなか寝てくれなかったということもあったそうです。そういえば、弟は小さい頃寝る時にべべと呼んでいたお気に入りの布を触りながらでないと眠れなかったのを、今思い出しました!

私の記憶にあるのは保育園からで、弟はしょっちゅう「姉ちゃん、遊んで!」と私の教室まで来ていました。(と、強く記憶していますが、もしかしたら弟が入園してしばらくまでだったのかもしれません)すると私は、友達と遊びたい気持ちを我慢して、仕方なく手を引いてせかせかとその辺を一周まわり、とりあえず姉としての任務は果たしたような気持ちになって「じゃあね!」と友達のもとに戻っていったのです。年子の2人姉弟ですから、家ではいつも一緒に遊んでいましたが、保育園では友達と遊ぶ方が楽しいので、ええ君(弟の呼び名)も早く友達作ればいいのにー!と思っていました。

小学校へ上がってからも、私が友達の家へ遊びに行くとよく一緒についてきていました。(これも弟が入学後しばらくの間だったのかもしれませんが)近所の友達の家なら良かったのですが、ある時、少し遠くの友達のお誕生日会に呼ばれたときも「一緒に行く!」と言われ、この時は「今日だけはダメ!」と結構強く言ったのですが聞かなくて…、困り、仕方なく連れて行ったけれど、少しおすまし感のあるお誕生日会だったので、私も皆もあの当時よく言っていたーよそゆきの服ーを着ておしゃれしてプレゼントも持っているのに、突然の呼ばれてもいない弟というこぶ付きであることが、友達の手前とても恥ずかしくて嫌だったのを覚えています。

とは、こんな小さい頃から根負けせざるを得ない立場にあったんですねぇ。…そして、とはみな、こんなに我の強い生き物なのでしょうか?それとも、立場がそうさせるのか?それとも、うちの弟の性格なのか?は分かりませんが、ともかく姉というのは、損な立場だなあ…と思うことが多々ありました。

 身体は私の方が大きくても、おやつの量は同じ。なのに、私はお姉さんだからと何かと譲ったり我慢させられたりすることの多い事よ。姉って、つまらないなあ…と。

小学生の時、親戚のおばさんのとこに弟と2人で預けられ、文具屋で「何か欲しいものを買っていいよ」と言われても、値段が気になり何にしようかなかなか決められない私とは反対に、値段など全く気にせず「これ!」と結構値段のする物(子供の私からすれば!ですが)を選ぶ弟の遠慮のなさに(これを子供らしさ、とも言いますが)姉として恥ずかしいような申し訳ないような気持ちになり、とても気をもんだのを覚えています。たった1才の違いでもこんなに意識が違うのですから、大げさに言えば、弟と2人でいる時の外界に対する姉の立場は常にミニ保護者のようでした。(幼いほど、1歳の差というのは精神年齢の差が大きいですからね。成長と共にその役目も徐々になくなってはきたのですけどね)

私はこんな立場で育ったから、交渉下手なのでしょうか?

下の子は甘え上手、頼みごと上手!は、世渡り上手!そして交渉上手になるんでしょうねえ…。羨ましいです!

甘え下手、頼み下手な私は(出来もしないのに!そう!!出来れば問題ないのですが…)1人で引き受けることしかできず、家でも職場でもクタクタに…。私は、働きアリの星を背負っているんだと思います。要領悪いのに…。(だから、使われるの??)

うちのも、5つ上の兄(もう亡くなりましたが)がいたで(?!)その我の強さと言ったら…もう!私の弟以上です!!なので、父は私や母には俄然強い!のに、なぜか弟には弱い!!のが、また私には全く面白くないのですが!!!(…悲しいかな、年代的な男尊女卑があり、若い頃はその分をうんと父に反発しましたが…それは、長くなるのでまた今度。。。トラ年生まれ&B型の父は強烈で、そのエピソードはなかなかのもの…乞うご期待あれ!)

まあ、小さい頃はそんな弟でしたが、人当たりは温和なのでちゃんと友達もでき、小学校4年生からはサッカークラブにも入って自分の世界を広げていったようですが…、ある日、学校で昇り棒から落ちて3日くらい記憶喪失になったことがあるのです。学校から母のもとへ連絡が入り、すぐに病院へ行ったのですが、そこで偶然いとこのお姉ちゃんに会ったことなど諸々を覚えていなかったのです。幸いたいした外傷もなかったので、小学生の私には「記憶喪失って本当にあるんだー」とそのことが不思議でならず、記憶喪失を面白がっていましたが、息子の子育てをしてきた今考えてみると、父と母はさぞかし心配だったと思います。私の息子がそうなっていたら、きっと私はとんでもなく心配したと思いますから!

弟は扁桃(へんとうせん)を取る手術もしたのですが、あの当時は椅子に座ったまま部分麻酔での手術で、なぜか母は近くでそれを見ていたのだそうです。すると受け皿に、弟(母にとっては息子)の口から大量に血が出てくるのを見て、倒れたのだとか。これを聞いた時も、私は、そのドラマのようにクラッと倒れる母を想像して本当にそんなことがあるんだ!とおかしくなり笑ってしまったのですが、「笑い事じゃないよ~。気持ち悪いくらい大量に血が出たんよー。心配したよ~」と母は言っていました。(でも、なんで立ち会ったんだろ?弟が不安がったからかな?ここでも、母が弟の我に負けたか??)扁桃は私の息子も5才の時に取っているのですが…その話はまた別の時に。。。

そして、中学に入って間もなくしたある休日のこと。私は部活に塾にと忙しくしていたので、夜になって知ったのですが、朝、母が弟を起こしに行くと布団に寝ていたのは枕で、弟は行方知らず。買ってもらったばかりの、あの頃男の子に流行ったセミドロップハンドル&多段変則のジュニアスポーツ自転車(今、検索したら、そんな名前だったんだ…と思いながら打ちましたが、その姿が懐かしい!)もなかったので、それに乗って遊びに行ったんだろうと、さほど心配することもなく、しかし、昼ご飯の時間が過ぎ…、夜ご飯の時間になっても帰ってこない!という事態に。さすがに、心配になってきたころ、その自転車とともに帰ってきたのです。どこへ行っていたのかを聞くと「門司まで行ってきた!」というから、驚きました!!私が住んでいた(山口県宇部から関門橋を渡り、はるばる(北九州市門司(もじ)までは、(今、検索したらICからICまでで)55㎞もあり!(しかも、往復ですからねえー!!行きはよいよい、帰りは辛い…だったと思いますが)その手前の下関までは車で何時間かかけて家族で行ったことがあったので、中学生だった私はとにかくその距離の遠さに驚き、1人で内緒でそんな冒険をしてきた弟を意外に思い、ひたすら「スゴイ~!!」と言っていました。父も母も心配させたことを叱るどころか「よく行き方が分かったね~!迷わんかった?」とただただ驚くばかりで、一気に我が家のプチヒーローになったのでした。

いつの間にやら、いえきっととっくに、私の後を追うばかりの弟ではなくなっていたんですね☆ミ

その後は…また次回に。。。