羊雲

羊 雲

✥ 復路の羊のふんわりノート ✥

弟のついでの話…続きの続き

f:id:white-ivy:20200225142710p:plain 記事 、前々記事の続きです。前々記事

hitsujigumo.hatenablog.jp

 前記事

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 して、一人東京の(情報系の)専門学校へ進学した年子の我がは(足の踏み場もないほど部屋は散らかっていましたが)2年間勉強は真面目に頑張ったようで、晴れてー学校からの推薦でー準大手(と、 今検索したら Wiki に書いてあった!) 商社システム部に就職しました。

 就職が決まる前、推薦者を決める学校側か?推薦者を受ける商社側か?は分からないのですが、実家の近所の、私達が子供の頃からよくアイスクリームを買いに行ったり、お使いに行ったりした小さな個人商店や、小さい頃からよく散髪に行った床屋さんのところに、弟のことを聞きに来た人がいたようなのです!

勿論、こっそり来たのでしょうが、商店のおばちゃんや床屋のおじちゃんがうちの両親に教えてくれたから分かった訳で、それを聞いた私は、これまたへ~!と、東京からはるばる弟の事を調べに来たりするんだー!そんなことって、本当にあるんだー!!と驚きました。弟は、いわゆるヤンチャと言われるようなことは一切なかったですし(ま、反対に生徒会長をしたり部活で部長をしたりという華やかなリーダー履歴もなかったのですが)当たり前に挨拶をする普通の子でした。(子供なのに気が回る私と違って)子供らしかった分、むしろ商店のおばちゃんにも床屋のおじちゃんにもとてもかわいがられていたと思います。

それは、入社した先の上司からも「箱入り息子」と言われるほどだったようでしたが、当時世の中的にもぐんぐん上り坂のシステムの仕事は多忙を極まり、連日終電の日々!だったはずが…、ある日突然に会社が倒産してしまったのです。

1998年のこと、弟は29才でした。正確には、あと3か月で30才。入社10年目でした。歴史ある会社だったことを誇りに思っていて愛着が強かっただけに、とてもショックを受けていました。それとなく以前より経営不振の噂はあり、株価はどんどん下がっていくので、社内でもいよいよ危ないんじゃないか?と社員同士で心配し合うものの、弟のシステム部の業務は変わらなかったので、いつも通り出社しようとしたら、自分の会社が倒産した!というTVのニュースが流れて知ったのだそうです。「社員なのに、世間の人と同じタイミングで知るんだよ!」と弟は悔しさや虚しさとともに怒り、悲しんでいました。

私も、通勤電車の中でおじさんが広げていた新聞の一面にあった「○○商事、倒産!」が目に飛び込んできて、知りました。

これは、弟の人生の2度目の転機です。

弟は会社の野球部に入っていて、あるとき阪神にいたバースと一緒に試合をする(?詳細は忘れましたが)とかいうTVの企画に当選したようで、チームで出ていて、盛り上がりとても楽しそうにしていたことなどを思い出しながらも…姉として、励ましました。

きっと、この転機はこの先の更なる良き未来に繋がっている気がする!というようなことを言ったと思います。…随分、曖昧な励ましのようですが、私はこのことに驚きましたし、残念には思いましたが、何というか、弟がかわいそうとか、そういう全くのマイナスには思えなかったのです。

確かに、真面目に頑張っていた弟には突然の試練で、運が悪いとも言えるのですが、弟はまだ独身でしたから養う家族がいるのに困るという訳でもなかったし、まだまだ若かった。次の仕事に移るという人生のネクストステージに進むんだなあ…と私には(姉ながら)他人事のようですが、不思議と楽しみにさえ思えてきたのです。

それはきっと、かつて誰にも内緒で1人で門司まで自転車で行ってきたことや、父の反対を押し切って進学校から専門学校へ行き、成績優秀者として推薦を受け就職するほどそこで真面目に頑張ったこと(…でもその推薦先が倒産!なのですが…)そんなことが、私に「ええ君なら大丈夫!」と思わせたのです。

それに、推薦で就職したということは、全くの自力で就職活動をして得た結果ではありませんから、ここらで一度くらい一から(再)就職活動をするのも良い経験になるのでは?と、まだこの先の人生は長いんだから、これを機会に更にたくましくなってもらいましょう!という姉心もありました。

あ!唯一、退寮の期限が来たタイミングで買ったばかりだった(後に事件現場‼となった)マンションローンはたっぷり残っていましたが…。

 そして、弟は自分の会社の倒産後に経営破綻した某銀行には税金が注ぎ込まれ救済されることに悔しい思いをしながらも、物流系の会社に転職しました。

そしてその後も、姉の私を心配させることはいくつもありました。

ある日の飲み会の帰りに電車で寝てしまった弟は、寝ている間にカバンごと擦られ、鍵もないので家に入れず(何かの時のためにと渡されていた)マンションの合鍵を取りに私のところに来たり、、、(あろうことか2回も!あったのです‼)

ちょうどエイズが世間を騒がせていた頃、弟の微熱が何カ月も続くのでエイズを疑い検査までしたけれど、エイズではなく、じゃあ一体何の病なのかと心配していたら、ウソのような話ですが、その頃付き合っていた「あ…そこを兵隊さんが行進してる…」というようなことを度々口にする他の人には見えないものが見えるらしい彼女と別れた(正確にはフラれたらしい)その途端、平熱に戻った!とか、、、

今ほど熱中症の知識が広まっておらず、スマホもまだなかったので即検索 ♪ ということも出来ない頃、弟が会社のサッカー部の試合中に熱中症で倒れ、身体は全く動かず目も開かないんだけど、周りの人が心配して大騒ぎしている声だけは聞こえて「救急車呼んだ方がいいんじゃない?」とか「水を飲ませた方がいいんじゃないか?」とか「ここを冷やした方がいいんじゃない?」とかみんながあれこれ言うのを「それ、ほんとに正しいの~?大丈夫なのか~?」と滅茶苦茶不安になりながらも動けず、結局救急車で運ばれ事なきを得たようですが、その日東京は「都内で熱中症により救急車で運ばれた人が〇〇人!」とトップニュースになるほどの突然の猛暑日、その〇〇人のうちの1人が弟だったのか…とか、、、(死者も出てましたから…、そっちに入らなくて本当ーに良かった!)

そして、極めつけは、以前に書いた弟のマンションで起きた、本当にあった怖~い話!なのです。

私が知っていることをちょっと思い返しただけでも、結構、命の危険に関わるような出来事もいくつもあり改めて驚くのですが、弟が独身の間は、姉としてやはりとても心配でした。

まあ、そんなこんなで少々時間がかかったけれど、その後弟は8つも年下のお嫁さんと結婚し(これまた時間がかかったけれど)この夏ようやく2才になったかわいい娘と、今は平穏な日々を送っています。

後は、もう任せたよ!あゆこさん(お嫁さんの名前)。。。

弟のついでの話…続き

f:id:white-ivy:20200225142710p:plain 記事の続きです。 前記事は以下 ⇩

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 の後、中学・高校時代は弟も私も部活勉強にと忙しくなり…、中間テストと期末テストの繰り返しで(その間に市内統一テストもあり…3学期制なのに一学期に3度も!)テストに追われる日々(まさに詰め込み教育時代!)で、弟に関しては大きな出来事もないうちに受験を迎えた気がします。

 、一つだけ、くだらないことを思い出しました。

中学生の時、弟がコップを口にくわえ、それを吸いつけたまま顔を振ったりして遊んでいたら、内出血して口の周りが絵に描いた泥棒のように黒くなったことがありました。私はそれを見て思わず笑ってしまったのですが、鏡で自分の顔を見た弟は「こんなんで学校に行けない…」と落ち込んだので、気の毒になり2人でしばし沈黙…。結局しばらくマスクをして登校していました。(当時はマスクといえば、風邪や咳がひどいときくらいしかしませんでしたから、季節がいつだったかは忘れましたが、その手があったか!と姉としてもホッとしたのを覚えています)

弟は中学ではソフトテニスに(硬式はなかったので)高校では再びサッカー部に入り179㎝の長身からキーパーをしていましたが、その、下の子的性格から先輩(といっても私にとっては同級生ですが)にはよく可愛がってもらっていたようでした。

しかし、私に続き、弟も勉強の方は苦労したようで、一浪どころか、二浪までしようとした、一見根性がありそうで実はフワフワの私とは違い、大学受験に失敗すると、ほとんどの同級生が当然のようにすることになる浪人は頑として嫌がりました。

(私の息子も浪人は絶対に嫌!と言ってたんですよねー。当時の弟にも、受験生だった頃の息子にも、浪人を経験した私は「浪人生活って、結構楽しいよ!」と話したのですが、これも向き不向きに分かれるんでしょうね。まあ、右も左も浪人だったあの頃と今では、時代も違いますが…)

そして弟は、即気持ちを切り替え、専門学校への進学を希望したのです。

(田舎とはいえ、一応は進学校でしたから、専門学校へ行く子など皆無に等しい中、そういう意味では勇気のいる決断だったと思います…が、私がふわふわと二浪しかかったのも影響したのかも?!)

しかし、それに参ったのは(男の!)弟にこそ大学進学をしてほしかった父です。父は、自分が高卒だったからこその苦労を伝え必死で説得したようですが、弟は(頑固ですから!)そこは聞きません。。。父が根負けして、弟は東京の(今でいうIT系の)専門学校へ行くことになったのです。(その初波が来始めていた頃でしたからね。今のように、PCやスマホでサラッと検索すればすぐに情報が得られる時代じゃなかったけど、弟なりに調べて考えて一人で決めたんでしょうね…)

ここで、ついでに私の話をすると…

私の場合は、大学受験に落ちると当然のように浪人!という波に乗りたくて(どうしても大学生になりたかったのです!)そうなると弟とW大学受験になり家計が苦しくなると渋る父に懇願して予備校に通わせてもらいました。

でも、将来なりたいものがあるわけでもなく、この方面の仕事に就きたいというものもなく、ただただ大学生になることに憧れていたのですが、女が大学に行ってどーする!という考えの父への対抗心もあったのだと思います。(高校生の時に、男女雇用機会均等法が制定されたので、そんな時代の影響もあったのでしょう)しかし…肝心の頭が!頭脳が!よろしくないので、大手予備校の高い授業料も虚しく、模試の判定は上がらないままでした。私がそんな具合ですから、父は「浪人までしてどこにも受からなかったら、公務員になりなさい!女が男と同じだけの給料がもらえるのは公務員が一番ええんじゃけぇ!」と父自身が公務員なので、公務員を絶賛し「…公務員には(そんな地味なもの!)なりたくない…」と小声で言う私のことなど聞く耳持たずで、勝手に公務員試験を申込み、受けに行かされました。この父の強引さは許せなかったのですが、勉強の成果が上がらない負い目があった私は、受けには行ったけれど、全て白紙で出したのです。勿論、そんなこと父にも母にも言ってませんし(これも!)今でも内緒にしてることの一つですけどね。ahaha!(だって、お父さんは私を公務員にさせたかったんだろうけど、私は公務員になりたくなかったんだもの!)

と、そんなことを経ながら大学受験本番も、共通一次の自己採点はよくないまま二次試験(論文のみ)を受け、論文はどうにかハッタリ通せましたが、なんせ共通一次で点が取れなかったので絶対に受かるはずがない!と思いながら結果を待っているうちに…どーしたことか、自分の能力のなさを棚に上げ急に欲が出てきてしまい、もし合格してもそこには行かずにもっと上の大学に進学したくなってきたのです!

(その当時は2浪も珍しくなかったですから、だんだんと自分を見失ってしまうのが浪人というものなのかもしれません。だって、現役だったら万々歳!一浪しても私の成績では届かなかった、私には受かれば御の字!の第一志望校だったのですから)

するとそこへ、ひょっこりまさかの格通が送られてきました。しかし、すっかり2浪する気満々になってしまっていたアホな私は、これを親に知らせずに2浪生活に入る気で、2,3日それを隠し持っていました。でもまあ、この度この大学には合格したけれど、もっと上の大学を目指したいので2浪させてほしい!とお願いしてみようと、合格通知を父に見せたら…全く予想外の事態に私の運命が決まってしまったのです。

格通知を見て、父が泣いたのです。私の目の前で…。うちでも職場でもワンマンと恐れられていた強面の、いつも強気な、決して人前で泣くようには見えない父が泣いたのです。私は非常ーに驚き「でもね、そこよりももっと上の大学に行きたくなったの!」とは言えなくなり…、現実を見るべく、その大学へ行くことに覚悟を決めたのでした。(合格通知、捨てなくて良かった…)

戻り、弟の続きは、また次回 ♪ 

 ですが!ノーベル医学生理学賞を受賞した本庶佑氏が、生まれは京都市ですが、その後高校卒業までを宇部で育った我が高校の大先輩だと分かり、田舎の公立進学校の上下層の果てしなさや恐るべし!…と、見上げる秋の空は高く、秋風が心地好くほほを撫でるのでした。。。

弟のついでの話

f:id:white-ivy:20200225142710p:plain リーカテゴリーで、私の弟の、ひとつ間違えれば 惨事!になったかもしれない本当にあった怖~い話 をしました

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 この我が、一見穏やかでそのように見えないのですが、思い起こせば…数々の心配な出来事はありました。

年子の弟は、小さい頃はいつも私にくっついてきていました。

私が物心つく前のこと、弟が生まれ、寝ている赤ちゃん(弟)に興味津々そうな1才の私に「触っちゃダメよ」と母が教えると、うなずいた私は、しばらくすると物差しで弟をつついていて驚いたことがあると、母に聞きました。(私は触ってない!触れているのは物差しよ!ということかしら?我ながら、当然覚えていませんが…)はたまた、母が弟を抱っこしていると「コッチ、コッチ」と赤ちゃんを布団に戻すよう私が言うので、そうしてみると、すかさず空いた母のひざに座ったりしていたのだとか…。(これも勿論、私は全く覚えていませんが、突然現れた得体の知れない赤ちゃんというものに興味を示しながらも、これまでとの勝手の違いから、母を取られては大変!と幼き知恵を絞っていたんですねぇ。HaHaHa!)

私が4才、弟が3才のときに家が建ち(祖父、父の父は大工兼業農家だったので、建ててくれたのです!)それまでの借家から引っ越したのですが、新しい家にワクワク!の私とは反対に、新しい家が理解できない弟は昼間は元気に遊んでいるのに、寝る時になると「家に帰る~!」と前の借家に帰りたがり(親から引き離された子犬のように)何日か泣いていたのだそうです。海へキャンプに行った時も、テントで寝る!ということにワクワク♪の私とは(やはり?)反対に波の音を怖がって泣き、なかなか寝てくれなかったということもあったそうです。そういえば、弟は小さい頃寝る時にべべと呼んでいたお気に入りの布を触りながらでないと眠れなかったのを、今思い出しました!

私の記憶にあるのは保育園からで、弟はしょっちゅう「姉ちゃん、遊んで!」と私の教室まで来ていました。(と、強く記憶していますが、もしかしたら弟が入園してしばらくまでだったのかもしれません)すると私は、友達と遊びたい気持ちを我慢して、仕方なく手を引いてせかせかとその辺を一周まわり、とりあえず姉としての任務は果たしたような気持ちになって「じゃあね!」と友達のもとに戻っていったのです。年子の2人姉弟ですから、家ではいつも一緒に遊んでいましたが、保育園では友達と遊ぶ方が楽しいので、ええ君(弟の呼び名)も早く友達作ればいいのにー!と思っていました。

小学校へ上がってからも、私が友達の家へ遊びに行くとよく一緒についてきていました。(これも弟が入学後しばらくの間だったのかもしれませんが)近所の友達の家なら良かったのですが、ある時、少し遠くの友達のお誕生日会に呼ばれたときも「一緒に行く!」と言われ、この時は「今日だけはダメ!」と結構強く言ったのですが聞かなくて…、困り、仕方なく連れて行ったけれど、少しおすまし感のあるお誕生日会だったので、私も皆もあの当時よく言っていたーよそゆきの服ーを着ておしゃれしてプレゼントも持っているのに、突然の呼ばれてもいない弟というこぶ付きであることが、友達の手前とても恥ずかしくて嫌だったのを覚えています。

とは、こんな小さい頃から根負けせざるを得ない立場にあったんですねぇ。…そして、とはみな、こんなに我の強い生き物なのでしょうか?それとも、立場がそうさせるのか?それとも、うちの弟の性格なのか?は分かりませんが、ともかく姉というのは、損な立場だなあ…と思うことが多々ありました。

 身体は私の方が大きくても、おやつの量は同じ。なのに、私はお姉さんだからと何かと譲ったり我慢させられたりすることの多い事よ。姉って、つまらないなあ…と。

小学生の時、親戚のおばさんのとこに弟と2人で預けられ、文具屋で「何か欲しいものを買っていいよ」と言われても、値段が気になり何にしようかなかなか決められない私とは反対に、値段など全く気にせず「これ!」と結構値段のする物(子供の私からすれば!ですが)を選ぶ弟の遠慮のなさに(これを子供らしさ、とも言いますが)姉として恥ずかしいような申し訳ないような気持ちになり、とても気をもんだのを覚えています。たった1才の違いでもこんなに意識が違うのですから、大げさに言えば、弟と2人でいる時の外界に対する姉の立場は常にミニ保護者のようでした。(幼いほど、1歳の差というのは精神年齢の差が大きいですからね。成長と共にその役目も徐々になくなってはきたのですけどね)

私はこんな立場で育ったから、交渉下手なのでしょうか?

下の子は甘え上手、頼みごと上手!は、世渡り上手!そして交渉上手になるんでしょうねえ…。羨ましいです!

甘え下手、頼み下手な私は(出来もしないのに!そう!!出来れば問題ないのですが…)1人で引き受けることしかできず、家でも職場でもクタクタに…。私は、働きアリの星を背負っているんだと思います。要領悪いのに…。(だから、使われるの??)

うちのも、5つ上の兄(もう亡くなりましたが)がいたで(?!)その我の強さと言ったら…もう!私の弟以上です!!なので、父は私や母には俄然強い!のに、なぜか弟には弱い!!のが、また私には全く面白くないのですが!!!(…悲しいかな、年代的な男尊女卑があり、若い頃はその分をうんと父に反発しましたが…それは、長くなるのでまた今度。。。トラ年生まれ&B型の父は強烈で、そのエピソードはなかなかのもの…乞うご期待あれ!)

まあ、小さい頃はそんな弟でしたが、人当たりは温和なのでちゃんと友達もでき、小学校4年生からはサッカークラブにも入って自分の世界を広げていったようですが…、ある日、学校で昇り棒から落ちて3日くらい記憶喪失になったことがあるのです。学校から母のもとへ連絡が入り、すぐに病院へ行ったのですが、そこで偶然いとこのお姉ちゃんに会ったことなど諸々を覚えていなかったのです。幸いたいした外傷もなかったので、小学生の私には「記憶喪失って本当にあるんだー」とそのことが不思議でならず、記憶喪失を面白がっていましたが、息子の子育てをしてきた今考えてみると、父と母はさぞかし心配だったと思います。私の息子がそうなっていたら、きっと私はとんでもなく心配したと思いますから!

弟は扁桃(へんとうせん)を取る手術もしたのですが、あの当時は椅子に座ったまま部分麻酔での手術で、なぜか母は近くでそれを見ていたのだそうです。すると受け皿に、弟(母にとっては息子)の口から大量に血が出てくるのを見て、倒れたのだとか。これを聞いた時も、私は、そのドラマのようにクラッと倒れる母を想像して本当にそんなことがあるんだ!とおかしくなり笑ってしまったのですが、「笑い事じゃないよ~。気持ち悪いくらい大量に血が出たんよー。心配したよ~」と母は言っていました。(でも、なんで立ち会ったんだろ?弟が不安がったからかな?ここでも、母が弟の我に負けたか??)扁桃は私の息子も5才の時に取っているのですが…その話はまた別の時に。。。

そして、中学に入って間もなくしたある休日のこと。私は部活に塾にと忙しくしていたので、夜になって知ったのですが、朝、母が弟を起こしに行くと布団に寝ていたのは枕で、弟は行方知らず。買ってもらったばかりの、あの頃男の子に流行ったセミドロップハンドル&多段変則のジュニアスポーツ自転車(今、検索したら、そんな名前だったんだ…と思いながら打ちましたが、その姿が懐かしい!)もなかったので、それに乗って遊びに行ったんだろうと、さほど心配することもなく、しかし、昼ご飯の時間が過ぎ…、夜ご飯の時間になっても帰ってこない!という事態に。さすがに、心配になってきたころ、その自転車とともに帰ってきたのです。どこへ行っていたのかを聞くと「門司まで行ってきた!」というから、驚きました!!私が住んでいた(山口県宇部から関門橋を渡り、はるばる(北九州市門司(もじ)までは、(今、検索したらICからICまでで)55㎞もあり!(しかも、往復ですからねえー!!行きはよいよい、帰りは辛い…だったと思いますが)その手前の下関までは車で何時間かかけて家族で行ったことがあったので、中学生だった私はとにかくその距離の遠さに驚き、1人で内緒でそんな冒険をしてきた弟を意外に思い、ひたすら「スゴイ~!!」と言っていました。父も母も心配させたことを叱るどころか「よく行き方が分かったね~!迷わんかった?」とただただ驚くばかりで、一気に我が家のプチヒーローになったのでした。

いつの間にやら、いえきっととっくに、私の後を追うばかりの弟ではなくなっていたんですね☆ミ

その後は…また次回に。。。

 

File21ー*黄斑前(上)膜の術後2年経過とアプリコットさん*ー

ー*右眼・黄斑前(上)膜の手術後、1年9カ月(51才)で白内障手術をしたモノビジョン私の場合*-(黄斑前膜の術後*2年)

 f:id:white-ivy:20200225152424p:plain い間、黄斑前膜の術後を励まし合ってきた、同士~*アプリコットさん*~がブログを終結されました。削除はなさらず、コメントの受付だけ止められて、同じように黄斑前膜で迷える方々のために、そのままの形で残して下さいました。

⇩ ここには、私がこのブログを立ち上げる前の術後経過もコメントの形で残っていますから、私にとっても大切なー術後記録ーです。

ー*-*-*-*-*-

…だったのに、yahoo!ブログサービス終了とともに、アプリコットさんのブログも消えてしまいました。。。悲しい。寂しい。(2020.2.18追記)

ー*-*-*-*-*- 

 本当に寂しいけれど、それはアプリコットさんに黄斑前膜の術後の症状に囚われない時期が来たのであろう…と、今の見え方と共にご自身の日常を楽しむことに忙しくなられたのであろう…と、私にはアプリコットさんがー羽ばたいていったように感じました。。。

アプリコットさんが、最初からおっしゃっていた~日にち薬~がその羽を軽やかにする日が来たのだと。。。

思い返すこと… 今からちょうど2年前横浜相鉄ビル眼科で、右眼・黄斑前(上)膜の手術をした私は、術後間もなくして医院・HP内のBBSでアプリコットさんの書き込みを見つけました ⇩

www3.ezbbs.net


黄斑前(上)膜の術後すぐ(といっても数か月)は、網膜がどんどん戻っていくので、その見え方の変化に脳が追い付かず、精神的にもかなり混乱します。

私の場合(更年期症状も重なったためか、術後2~3カ月頃が一番精神不安定でしたが)術後すぐは、手術が無事終わった安堵の喜びとこれから網膜が最大限に戻るべく努力をする気持ちいっぱいに気合いの入った時だったので、むしろアプリコットさんが術後すぐこんなに不安になっていらっしゃったことに驚きました。

黄斑前膜の術後は、簡単に言えば、霞はどんどん無くなっていきますが、視界の中心部分だけが歪んで大きく見えたり、二重に見えたりする状態が続きます。でもそれは、見る物の大きさや距離、周りの明るさによって変わるので、その不具合さを「こんな風に見えにくいの!」と他人に見せることもできず、伝えにくいため、一人で悶々と耐えることになりがちだと思います。

だからこそ、こうして同じ病気の者同士で交信できたことは、気持ちが楽になり、励まされ前向きになることが出来ました。アプリコットさんの発信があったのとなかったのとでは、術後の回復が全然違ったと思うのです。本当に助けられました。。。それでも、術後不安定になるときもありましたが、レジリエンスは、鍛えられて強くなる!!のだと分かりました。

 それにしても、2年…。いつの間にか、そんなに時が経ってしまった。かつて、鄭先生に「視界が安定するまで2~3年の時を要します」と助言された時、2年が遠~い先のことのように感じたのですが…、今は、その2年がもう来てしまった!

検診の度に気になっていた、OCTの数値や網膜の断層写真が、いつからか少しずつ変化が無くなり、それがつまりは視界の安定となり、日にち薬の効果らしく、いつの間にやら我が視界として受け入れていくようになりました。

術前、また術後すぐ、網膜はどこまで戻ってくれるのか?元通りにならない網膜って、どんな視界なのか?日常生活は?仕事もできるの?と、未知なる疑問と不安でいっぱいでしたが、術後2年経ってみて分かったことは、アプリコットさんもおっしゃっていますが、眼鏡や見方を工夫すれば何とかなる!ので、私は病気になる前とほぼ同じ生活を送っています ♪

私の場合、結局(51才の若さで?)白内障の手術をしましたが、それも何をそんなに悲観していたのか?と思うほど、全ての色が明るくきれいに見え、色が白いは七難隠す!を実感しています☆ミ 逆に左眼のセピア色に見える視界が気になり、老眼も始まっているんだし、こっちも鄭先生がお元気なうちに手術したくなってくるほど。その差はブルーライトカットレンズの薄黄色があるのと無いほどの違いで明らかです。左眼も明るく見えるようになれば、少しくらい暗いところでももっと字が見やすくなるのでは?と思い、左眼の白内障の手術はいつするのが適頃だろう?と考えてしまいます。

右眼も焦点66㎝で縦長に大きく見えることで、先日、面白い事に気が付きました。職場の先輩女性と向かい合ってランチを食べながらおしゃべりをしていた時のこと。普通に目を見て話していて、あれ?この人こんなに目がパッチリしていたかしら?と思うほど、以前よりかわいく見えるのです。そう、テーブルを挟んで向かい合うその距離が66㎝よりちょっと先で、縦長に大きく見える効果発揮で、お目々パッチリだったのです。面白いでしょ?不細工に見えるよりかわいく見える方が絶対にいい!ですからね^^

アプリコットさんと私は手術までの期間も、術後の網膜の形も、左右眼の焦点の位置も違うので、二重に見えたり大きく見えたりする箇所も違いますが、それにあった見方のコツをつかんだり、眼鏡や見方を工夫したりすることで、乗り越えていっていますから、大丈夫♡と、黄斑前膜と分かったときにお先真っ暗のごとく大泣きしたあの頃の私に、教えてあげたいくらいです ♪

そして、最後に…

アプリコットさんの発信のお陰で、私はより良い術後の回復ができたと思っています!

アプリコットさん、楽しかったです ♪ ありがとうございました!そして、お元気で☆彡

(あ、私はまだ、来月頭に白内障の術後3カ月検診に行きますが…。)

 

横浜相鉄ビル眼科医院 (横浜駅西口、神奈川県横浜市西区)

ー*執刀主治医:鄭(てい)先生*-

(注:鄭先生には、ブログ掲載の承諾を得ています)

弟の怖い話(@_@;)

f:id:white-ivy:20200225142710p:plain れは、私と旦那が私の弟から聞いた、実話です。。。

かれこれ10年以上前、弟がまだ独身で1人暮らしをしていた頃のことです。

 

が夜中ふと目覚めると、すぐそこに男の人が立っていたのだそうです!

(もうこの出だしで、私は「え~っ!」とビックリ!超恐怖!!でしたが…)

だのに、弟は少し驚いたものの、冷静に「部屋をお間違いではないですか?」と言ったのだそうです。というのも、なんと!その男の人は、下半身スッポンポン!で、何も履いてなかった!!からこそ、弟は、上か下の住人が酔っ払って自分の家と間違えて入ってきたのでは?と思ったのだとか。弟が住んでいたのはマンションで、上下階は全て同じ間取り。下半身スッポンポンなのは、着替えの途中と思ったらしいのです。

(しかし私は、あまりの予想外の様相再び「ええー!!」と驚くと同時に、旦那と弟と3人で爆笑してしまいました!ー混乱すると、人は笑うんですねーお酒を飲みながらのおしゃべりだったので、酔った旦那はその後しつこく弟の貞操の心配ばかりしていましたが…)

そして、そこですかさず私が「でも、何で家に入ってこれたの?鍵を閉め忘れてたの?」と聞くと、あろうことか、弟はそれまで、出かける時は鍵をかけていたけれど、自分が部屋にいるときはほとんど鍵をしていなかったのだ、というではありませんか!(アホか!

弟が住んでいたのは、将来を見込んで購入したファミリータイプの分譲マンションでオートロックだった為、まさか不審者が侵入するなどとは思ってなかった、というのです。(信じられません!アホや…)

そして、呑気にもその下半身スッポンポン男「部屋をお間違いではないですか?」と言ったら、急に男はダッと逃げて、玄関から出て行ったのだそう!そこで初めて、その男の着ていたシャツが自分のシャツで(キャ~!どういうこと~?!)そのシャツの胸ポケットに入っていたものが健康保険証だったと気が付き、とっさに自分のものだ!取り戻さねば!!と追いかけたのだそう。細身だけれど、身長180㎝近くありサッカーのゴールキーパーもしていた弟ですが、追いついたその男と取っ組み合いになり(…下半身スッポンポン男と取っ組み合い!…ビジュアルが凄すぎてドラマにもできんな!!と旦那…)そして、殴られたのだそうです。それは、しばらく目の周りにアザが残るほどで、殴られてはじめて相手の異常さというか恐怖を感じて、すぐに自分の部屋に戻り、警察に電話したようです。。。

すぐに警察が来て、数名の警察官が探しに出ると、マンションの踊り場で袋を持った男を発見し、逮捕に至りました。その袋からは弟の服がたくさん出てきたようで、証拠隠滅のために捨てようとしていたようです。そして、その日が初めての侵入ではなかったらしく(マジかー!?)以前から弟の寝ている夜中に何度も侵入し(だって、鍵かけてないんだもん!)服を持ち出していたらしいのですが(整理整頓が苦手でだらしのない)弟は自分の服が無くなっていたことに気付かなかったというのです。(保険証を持ち出していたくらいですから、お金も財布から抜かれていたかもしれませんが、それにも気づかなかったのでしょうね…弟が完全にアホなんですが…にしても、怖すぎる!夜中に鍵のかかっていない家を探し当て、家主がいるのに侵入を繰り返す方がずっと異常です!

もうここまで聞くと、笑い事ではなくなりゾッとして(そもそも弟が鍵をちゃんとかけていれば、こんなことにはならなかったのですが…)姉である私は、弟が服やその他物品を盗られるだけで済んで良かった!と、どう考えても普通じゃない人の行動ですから、ともかく命があって良かった!と思いました。。。

(姉というのは、大人になっても弟のことが心配なのです)

…しかし、その犯人は同じマンションの住人!だったらしく、刑期を終えると戻ってくるという不安を抱えたまま、その後弟は結婚し、奥さんと子供と一緒に、今でもそのマンションに住んでいるのです。。。

引っ越せばいいのにー!怖いー!!けど、さすがに玄関の鍵は、ダブルキーになっていましたが…)

こわい話(*_*;)

f:id:white-ivy:20200225142710p:plain い話の季節ですね。。。怖い話は苦手なのですが…久々にフリートークを ♪

以前の記事【黄斑前膜・File10】で、手術が怖いという気持ちをコントロールするのは難しいであろう(私は全く、あぁ緊張はすれど、怖いというのはありませんでした!)という話の流れで、私がとっても怖いのはクモとゴキ〇〇!と打ち明けましたが、もう一つ同じくらい心臓がバクバクするほど、とっても怖いもの(?)があります。

 お化けです。

はあ?!いい大人が何をおっしゃいますやら!と笑われそうですが、そうなのだから仕方ない。多くの人は、いい大人になったら怖くなくなるのかしら?私ももっと高齢になったら、怖くなくなるのかしら?私だって怖いものはないほうが良いのですから、そうなってほしいけど、それは、いったい何をキッカケにそうなれるの??そうなりたい!けど、どうすれば?努、努、努力で変われるの??

そういえば、数年前にガーデニングにハマっていた時、園芸店でパート勤めをしていて虫がよく出たのですが、クモだけは死骸でも初見ならば心臓がバクバク!生きているのも時々出たので、都度ドキドキしながらも耐性が徐々にできていき、怖い!けれど以前のように心臓が飛び出しそうなくらいの恐怖に陥ることはなくなっていきました。でも、そこを辞め、再びクモと縁遠い生活に戻った今、その恐怖心は振り出しに戻っていますが…。そういえば今年は、小さくて丸くて黒いピョンッと跳ねる例のクモも、幸いなことに見かけていません。(もしかして、日ごろの行いがいいのかしら?)

コンバットも年中欠かさず置いているので、その効果は抜群に、家の中でもう何年もゴ〇〇〇を見ていません。(道路を歩いているのにたまに遭遇しますが、それは見なかったことにして、避けて通れば済みますから…)この夏、職場でも新規オープンしたサテライトの搬入日に大きいのが出た!と聞き、即設置。効果を祈ること数日で、亡骸が発見されたようで、本当にコンバット様様!なことからすると、設置するだけで、ここまで効果を発揮するこちらに投資を続ける方がお手軽ですね!嗚呼、KINCHOさん、ありがとう! これからも、期待してます!!

恐らく、嫌われランキング堂々1位なんじゃないかと思われる、ゴ〇〇〇!でも、女性でも嫌だけど退治はできるという人もいて、これ、職場に出たからといって、うっかりキャーキャー大騒ぎしようものなら「これ(ゴ〇〇〇退治!)も仕事のうちです!」と先輩女性から反感を買うことになるだけでなく、そんなの契約内容に書いてないじゃ~ん!と心の中で叫ぶ私に殺虫剤を渡されることになりかねないので、出た時は、できるだけ静かに男性社員に助けを求めるようにしていますが「俺もダメなんだよね~」ということもままあるので、やはり、出る前に置く!そして切らさない!ことが私の鉄則です!!

 しかし、このゴ〇〇〇、男性でも逃げ回るしかできない人もいるからか、女性が退治してさっとティッシュで捨てようものなら「(この人)スゲー!」と(それは、苦手な人からするととても奇特な人であるのに)まるで女じゃない!かのような感じになるので、せっかく退治できる奇特な女性がいても、その発動が遅れ、騒ぎはなかなか収束せず恐怖の時間は長引くどころか、逃げられるようなことにでもなれば、(コンバットの効きに期待しながらも)またいつ何時に不意打ちをくらうかもしれないことになるのが、やっかいなのです。

私だって、他の虫、例えばコオロギやカナブンはかわいいと思うし、セミも風情があると思うし、息子が小さい頃はカブトムシを卵から育てたこともあるので、虫が全部だめなわけではないのです。でも、今、ふと、クモは昆虫じゃなかったはずだけど、ゴ〇〇〇って虫なの?と思い、検索をかけたら(絵なのか写真なのか分からないけど)その姿がいきなり出てきて悲鳴を上げながらシャットアウトすることになりました。。。その見た目も、やはり私には刺激が強すぎるのです。(あー、怖かった!まだドキドキしてる…)爬虫類や両生類は平気なんだけどなー。

 私の両親は、虫もお化けも(爬虫類も両生類も)ちっとも怖くないようで。。。

怖いものってあるのかなー?私が小さい頃から、ムカデは毒があるからいけん!とか言って、蛇にも蜂にもいつも果敢に向かっていっていた父に、今度聞いてみよう!…そういえば、前に熊が出るニュースを見て自分の行く山じゃないのにハイキングに行くのを止めたと母に聞いたことがあるなあ。実際に命を脅かすものは誰でも怖いけど、そういうのじゃなくて、私が挙げているような類のもので、何かあるのかなあ?家族でも意外と知らないことって、あるからなあ…。父は食べ物の好き嫌いもないのですが、私が子供の頃(私は大好きだった)サツマイモの天ぷらを残していて「甘くておいしいのに嫌いなほ?(ほ、は方言です)」と聞いたら、食糧難だった小さい頃にサツマイモばっかり食べさせられたけーあんまり好きじゃないほと言われ、子どもながらに、そうなんだ!こんなに甘くておいしいものでも食べすぎると好きじゃなくなるんだ!と思ったのを覚えています。

それもこれも時代の違いのせいなんだろうな、幼少期の環境の違いのせい、成長期に受けた情報量の違いのせいだと思います。子供の頃から虫や暗闇とともに生きてきた両親の時代と、化学が進み、虫の類が家の中に出たら、それは不法侵入として殺虫剤で処す時代に育った私。TVも普及しておらず、ラジオやお話で怖い話をたまに聞いてきたかもしれない両親の子ども時代と、TVや映画や本など夏になると大量にホラーが出回る時代に育った私、の違いだと思うのです。時代が私を軟弱に、そして要らぬ想像力を豊かにしたのだと。

しかし、私には霊感はなく、よって(?)一度もお化けに遭遇したこともなく、明らかに不可解な体験をしたことはないのですが…、実はうっすらとしたそれは一度だけありました。

それは、数年前の我が家でのこと。(もうー、なぜ我が家なのよー!!)旦那の実家に遊びに行ったとき、旦那と息子だけ泊まり、私は翌日の仕事を理由に帰るということがよくあるのですが、そのときも私1人で帰り夜寝ていたときのことです。そもそも3LDKという1人で過ごすには広いと感じるところに1人で寝ること自体が怖くていつもドキドキしているのですが、そのときは何かすぐそばで圧迫感のようなものを感じて眠りが浅くなったのですが、なんとなく朝になりそのまま忘れていました。が、後日旦那がその日に番組の録画予約をしたはずのものがなぜか奇妙にブツ切れになっていたのを、文句を言っていて、それがその日だったと知った時に私は一気にゾッとしたのです。ただの偶然かもしれませんが、霊は電化製品に影響を及ぼすとかいう、余計な知りたくなかった情報のせいで、私は恐怖に慄くことになったのです。(もう…かつて流行ったリングで、貞子がTVから出てきたのを観てしまったのをとっても後悔しています。それは今でもしつこく私を怖がらせるのですから…)

ですから、私は当然、ホラーものは極力見たり聞いたりしません。

しかし、旦那はホラーものが大好き!一度幽霊を見てみたい!!と、学生の頃に、出る!と名高い〇〇トンネルにわざわざ深夜に行ってみたりしたけど、いやしねえし!などと文句を言うほど。なので、ここも私にとっては頼もしきナイトであるはずなのですが…、ホラーの見過ぎか、時々ゾンビが夢に出てくるようで「…う~、ひ~」と唸っていることがあります。その声に目が覚めた私が「大丈夫だよ!」と腕に手を置いたら「ギャー!」と力いっぱいその腕でバシッとされ、痛いのなんのって…。その失敗以来、旦那が「…う~、ひ~」と唸り出したら、決して触ることなく「夢だよ!」と言うことに。これは効果覿面に一瞬で目覚めるようで、ハッとしてクルッと背を向け、再び静かに寝息をたて始めます。これは、数か月に1回くらいの頻度であり、ど~もいつまでも夢の中ではゾンビにビビッている様子からして、いざ現実に、非現実的な現象が起きた時、果たしてこのナイトは頼りになるのか?

…甚だ疑問ですが!

File20*黄斑前(上)膜・術後に発症した白内障の術後*焦点ズレ?!

*右眼・黄斑前(上)膜の手術後、1年9カ月(51才)で白内障手術をしたモノビジョン私の場合*-(黄斑前膜の術後*1年11カ月)

 f:id:white-ivy:20200225152424p:plain 早いもので白内障手術をして、1カ月半経ちました。術後検診の通院間隔は黄斑前膜の時と同じなのに、術後の経過が全く違うからか、時が経つのが早く感じます。 

検査結果からすると、翌日検診時と同じ数値の1.5D焦点66㎝)で落ち着いた模様です。術後3週間の時、一時的にー1.6D(焦点62㎝)という結果が出たのですが、その後の1カ月検診も、先日の1か月半検診もー1.5D(焦点66㎝)でした。

手術前眼内レンズの焦点を決めるのに、焦点40㎝(‐2.5D)か?50㎝(‐2D)か?と、あんなに(一人で)大騒ぎして散々迷い、焦点40㎝に決めた!のに。。。40でも50でもなく、40と50の間でもなく、焦点66㎝という結果になりました。  

 実は、レーシックと黄斑前膜の影響で焦点がズレる可能性が高いこと、プラスマイナス1Dの誤差は一定の確率で出るというのをネット情報で知り、それを計算に入れて焦点40㎝(‐2.5D)に決めていたのです。

つまり、ー3.5D(焦点28㎝)~ ー1.5D(焦点66㎝)は想定の範囲内でした。

ズレたとしても、できるだけ近距離に抑えたかったので、焦点40㎝を希望したのですが、実際のピントが(検査結果の数値上は)66㎝になったのです。

以下ネットのある眼科の先生の説明文の引用です ↓

レーシックをしていない眼でも1D近いズレが出ることがあります。-2.5Dを狙っても-1.5から-3.5D(約70センチから30センチ)は覚悟が必要だということですね。そもそも眼球は工業規格製品ではありませんし、構造的な個体差がどうしてもありますので、予測式でそれほどピンポイントに正確な結果を出せるわけではありません

 レーシックをしていなくても、とおっしゃってますね。焦点ズレについて結構検索したのですが、この程度のズレは眼鏡等で補正して見え方を調整するとよいとのこと。

焦点ズレの覚悟はできていたものの、先日の検診の時、鄭先生に「私は黄斑前膜の影響で黄斑部の凹みが足りない、つまり他の人より少し前に出ているから、その分焦点が少し先になったのですか?」と聞いてみたのです。その日は台風接近前で急に涼しくなったからか、朝からとても混んでいたようで、私が行った夕方の時間も混んでいて、鄭先生ヘロヘロのご様子ですぐに言葉が出ません。「…それは逆なら…いや…黄斑部の形はもう落ち着いていましたし…眼軸長はちゃんと測ってますから…、…誤差ですね」と。私が時々質問をすると、鄭先生は固まってしまったようになることがあります。(職場でも上司に、子供相談室のようなことを聞かないでくれ、とか、上司は何でも知っていると思わないでくれ、とか言われたことがありますが…)そして、更に「誤差が出るのは、眼の中がまん丸じゃないから?」と言ってしまい、鄭先生、その大きな瞳は瞬きするものの「…、…、…」もはや返す言葉は何も出ないのでした。。。(鄭先生、より疲れさせてしまい、ごめんなさい!)

でも、逆なら?って…、黄斑前膜と同時に白内障手術をしていたら、手術後に網膜・黄斑部が戻っていくので形が変わり、眼軸長も変わってくるから黄斑前膜だったせいでズレたといえるけど、ってことかな?こっちの方が、どの焦点に落ち着くかは、手術後の網膜の戻り方によるってことかー。。。ほほう!

そして、その眼軸長とは?調べると、眼の奥行、角膜(黒目)から網膜までの長さとあります。更に調べると、眼内レンズの度数を決める計算式にも入っています。手術前検査でレーシックをしていることも確かめられたので、それも計算に入っていたのでしょうが、私の眼の方に誤差が出る要因があったということだと思います。

以下、ズレる要因について分かりやすく書いてあるものを見つけたました! ↓

…どうして5%の方がズレてしまうのかというと、術前検査の正確な測定が出来ていなかった(瞬きが多すぎる、ドライアイ、顔が傾いていた等々)可能性もありますが、一番多いのが何等かの理由で不正乱視があったり、角膜の曲率(カーブ)が通常の症例よりもかなり大きい方、もしくは小さい方がズレやすいと言えます。つまり、予想式が平均的な眼球を想定して作成されているため、平均的ではない眼球の方は恩恵を被れない可能性が高くなるわけです。

更に、「平均的ではない眼球」と言えば、LASIKを始めとする屈折矯正手術後の方はその最たるものとなります。LASIK術後眼を通常の計算式を用いて眼内レンズを決めると、遠視方向にズレてしまうことは知られています。専門の計算式を用いても、どうしても通常の目に比べると成績が劣ってしまうことは否めません。

 私は…、乱視もあるし、元々は視力0.05前後の強度近視で、レーシックをしているし、黄斑前膜も…と、平均的ではない眼球要素のオンパレード!だからズレたのでしょう!!

さあ、その新たな右眼・焦点66㎝!

焦点30㎝は手に取った本を読む距離、40㎝はテーブル上の新聞を読む距離、50㎝はパソコンを見る距離、という大体の目安がありますが…では焦点66㎝は?

実際に生活してみるとどんな感じなのか?

測ってみると、身長165㎝の私が腕をいっぱいに伸ばしたその少し先です。

…何だかとっても中途半端な感じがしますが…、検診の時、鄭先生にこれを伝えたら「では、これから本を読むときは、こーして(鄭先生、手をいっぱいに伸ばす)読んでください!」とご冗談が返ってきたので、私も負けずに「…いえ、老眼鏡をかけます!…でも、それより近くも見えたりもするんですけど…」と言うと「では…あとは気合!ですね!!」「はい!(≧▽≦)!」

では具体的に、老眼&遠くは見える左眼と裸眼のまま両眼視すると、何が見えるのか?

立ち上がった状態で、ほぼプリントの字が読めます。

パソコンを使っている人の背後からでも、何となくパソコンの字が読めます。

ほぼ、何となく、というのは若干にじみがありピントバッチリではないということです。そのブレは、その距離の左右の視界が融像しきれていない、ということだと思います。

なので、パソコンを使うとき、裸眼でも何となく見えるけれど、長時間使うときは、今まで使っていた左眼のみ度の入ったこの老眼鏡をかける方がピントバッチリなので、それをかけています。(ブルーライトもカットするし!それ、疲れ方が全然違うし!!)机上の書類や手元で本を読むときも、この片方だけ度の入った老眼鏡とても良い塩梅なのです。

以前の記事にも書きましたが、黄斑前膜だった影響で物が大きく見える右眼の視界と老眼用レンズで物が大きく見える左眼の視界がほぼ同じ大きさに見えているようで(全く同じ大きさではありませんが)左右の視界が融像できる範囲なようで、2重に見えることがないのは勿論、とても見やすい!(だた、とーっても小さくて画数の多い字は、眼鏡をかけたまま虫眼鏡を使わないと見えませんが)なので、デスクワークではこれをかけています。

先日この老眼鏡を忘れて出勤したのですが、裸眼でもそんなに疲れることもなく何とか見えました。手術前(焦点が30㎝だったときに)老眼鏡を忘れた時は、書類やパソコンにいちいち近づかないと見えなかったのが、今は裸眼で書類を手に取っても机上に置いても何となく見えるのです。なので、料理をするときも袋や箱の裏に書いてある作り方や分量がほぼ見えるので、老眼鏡の必要はなく、手術前より見える範囲が広がった感じがします。(黄斑前膜の手術前や術後しばらくの頃は、料理本の分量も見えないし、包丁を使う手元も見えにくくて老眼鏡をかけていたのを思い出すと、随分と改善したなぁと思います)

出先でも、例えば、クレジットカードで買い物した時に、レシートを見せられて金額の確認とサインを求められても、裸眼でちゃんと見えるし書ける!(明るい店内で、レシートという白地に黒文字だとしっかり見える。暗いところで、色がついた紙とか色文字だと、途端に見えにくいけれど…)

でも、先日ママ友とランチしたときは、少し暗い店でしたが、何とかメニューが見えました!(やはり黄斑前膜の手術前後、自分よりずっと年上の人も見えているメニューが私には全く見えなくて、悲しくてひたすら不安だったのを思い出し、ここまで見えるようになったことに、本当に感謝だわ♡と、鄭先生に手を合わせるのです☆)

このように実際は66㎝よりも手前が結構見えているのです。これが、偽調節なのかもしれませんが、黄斑前膜だった影響で大きく見えることが偽調節を助けているのでは?と思うのです。だって、老眼の左眼だけで見ると字がとっても小さくてボケてて読めないものが、右眼だけで見るとグッと大きくなるので見やすい、両目だと若干にじむような感じですが、まあまあ読めるのです。

ただ、しっかり明るくないと途端にぼやけて見えにくくなるので、本を読むときは明るさがなければ、老眼鏡をかけます。

どのくらいで見えにくくなるかというと、電車の中で外の太陽の明かりが射すほど明るい窓側にいると本の字がしっかり見えるのに、車内のポールやつり革で少しでも影になるような中側だとたちまち見えにくいのです。キッチンは明るいから見えるけど、洗面所はあまり明るくないので見えにくい…。しかも立っていると灯かりに近いのでギリギリ見えている物もしゃがむとその分(1mちょっと?)灯かりから離れてしまい見えにくいという具合に、ちょっとした明るさの差に大きく左右されます。

中~遠距離は、今まで通り左眼で見ていますからモノビジョンは成立しています。光るものやシンプルなものが2つに見えるのも変わりませんが、全体の風景(外)としては白内障の時にところどころにあった霞が無くなった分の違和感が減り、以前よりはスッキリ見えるようになりました。複雑な画像全体は2重にできないのに、空との境目などは少しブレて2重に見えます。脳が何とか融像しようとしているんだろうけど…そこ、頑張らなくていいから!という私の意思は脳には届かないようで、脳の画像処理能力って面白いなあと思います。

でもこれが!新たに運命られた(?)私のこれからの視界なのですから、工夫しながら大事に大事に付き合っていきたいと思います☆彡

横浜相鉄ビル眼科医院 (横浜駅西口、神奈川県横浜市西区)

ー*執刀主治医:鄭(てい)先生*-

(注:鄭先生には、ブログ掲載の承諾を得ています)